その2

そういえば最近読んで記憶に残った本としてこの本があった。

新装版 洗脳の楽園

新装版 洗脳の楽園

いうまでもなくひとつの立場から書かれた本ではあるが、宗教的なもの(宗教ではない)にたいしていささか不寛容なところのあるぼくとしては首肯する点が多かった。が、そういうところを離れて印象に残ったのは、これはヤマギシ会に限ったことではないが、こうした代替的な社会を構想するさいに、とりわけ農本主義的傾向が強いものにかんして、ひとつの問題となるのが、「家族」、そして(社会の再生産の単位としての)「男女」の関係、いや有り体にいえばそのものずばりとしての性行為をどのように社会に配置するかということがある。

たとえば、夫婦関係も含めて私的所有をかたく戒めるスパルタのような社会があったとき
ようやくハイティーンになった自分の娘が、たとえば40歳ぐらいの身も知らぬおっさん(おお!おれのことだ)と結婚せねばならなくなったとして、離ればなれに暮らしていたにもかかわらず、そのような娘の行く末に耐えきれなくなったとき、そのエデンから「娘」を連れて逃げだそうと決心する「男」親がいたとしたら、
その「男」親は
1. やはりその家父長主義的な偏見の保持ゆえに非難されるべきか。つまりそれは娘を所有物として考えたことの結果として。
2. あるいは親としての私情は、むしろ歪な社会のイデオロギーに打ち勝つための自然の力として肯定されるべきか。

またもオルハン・パクムの別の例。

いい返事だ、先生。その手に尊敬の口づけをする。・・アメリカのモスレムで黒人のマルヴィン・キング教授の調べた統計によると、女たちがヴェールを被るイスラム圏では、婦女暴行事件はゼロに近く、困らされることはほとんど皆無だ。なぜなら、ヴェールを被った女たちは、その服装によって男たちにこう言っているのだから、『どうぞわたしをいじめないで』と。先生ひとつ質問してもいいですか? 髪を覆っている女に教育を与えないで、社会の外に追い出すことによって、髪を出したものを大事にすることによって、女たちの操を性革命後のヨーロッパにおけるように価値のないものにすることは自分たちを、すみません、悪い言葉を使いますが、売春宿屋の主人に引き下げることになりませんか?」/「息子よ、わしは菓子パンを食べ終えた。すまんが、出たいのだが」/「座っていなさい、先生。座っていてくれ、これを使わないで済むようにな。これが何か見えるかね、先生よ。」/「ピストルだ。」
・・・
「先生よ、何年も手塩にかけた、親の目に入れても痛くない、あの賢い、勤勉な、いずれもクラスで一番のあの少女たちに何をしたか覚えていますか? アンカラから指令が来てから、最初は彼女たちを無視しました。出席しても髪を覆っているといって欠席にしました。学生が七人いるのに、その中の一人が髪を覆っているといって、六人分のちゃを持ってこさせました。それだけではありません。アンカラからきた新しい命令に従って、まず彼女たちを教室に入れず、廊下に出しました。・・・・」
「スカーフを被っている少女が、スカーフを外すことがこの国になんの役に立つのか? 心から良心が納得する理由を言ってくれ。たとえば、スカーフを外せば、ヨーロッパ人が彼女を人並みに扱うだろうとか、少なくとも、目的が分かれば、お前を撃たない。放してやる。」/「息子よ、わしにも一人娘がいる。スカーフはしていない。わしはスカーフを被っている妻にも干渉しないし、娘にもしなかった」/「お前の娘はどうしてスカーフを外した? 女優にでもなろうとしているのか?」/わしは何も聞いていない。アンカラで広報学を勉強している。・・・」/
・・・・トルコの女性の90%が髪を覆う時、お前の娘は服を脱いで、肌を露わにするのを誇りに思うだろう。この恥知らずな残酷者。しかしこのことをよく覚えておけよ。おれは大学教授ではないがこの分野はよく勉強している。」
「髪を覆った少女たちが髪を出すことの良心にそぐう、たったひとつ理由をいえ。そうすれば約束する。お前を撃たない」/「女がスカーフをはずせば、社会の中でもっと楽になる。尊敬される」/「女優になったお前の娘は多分そうだろう。しかし覆うことは、その反対に、女を暴力や侮辱や陵辱から守り、人中により楽に出て行けるようにした。昔はベリーダンスをしていたメラハト・シャンドラもそのうちの一人だが、あとになって覆った多くの女たちも明らかにしたように、覆った女は、外で男たちの動物本能を刺激したり、他の女たちと魅力を競う必要がない。そしてたえず化粧する哀れな性的対象物になることもない。・・・どうして笑うのですか。面白いことでも言いましたか。・・言え、この野郎、恥知らずな無神論者め。どうして笑った」/「わしは心のなかでこの国のお前たちやトゥルバンの少女たちのことを信じて苦しんでいる。若い者たちに対する愛で満ちている」/「憐れみを乞うても無駄だ。おれは少しも苦しんでいない。しかし自殺した少女たちのことを笑ったから、お前はいまその罰をうけるのだ。・・・」

このあと、「先生」は撃たれ、死ぬ。先生を撃つ「息子」の言葉、あるいはレトリックには既視感を覚えざるをえないが、そしてそれと必ずしも無関係ではあるまいが、被害者である少女たちを代弁する「息子」の態度に見られるのは、おそらくこれもまたひとつのパターナリズムである。上の例と比較すると、なぜこうも結果が異なるように思われるのか。見落とされているものはなにか。

昨日の日記で、

この日本という国では男たちは、国家を語り、地球を語り、あるいは霊性とやらを語る。

と書いたが、順番としては、逆のほうがよかったかもしれない。原理主義というのはあるいは超越性を欠いた宗教なのだろうか。