家族三人で出かける。
部屋の掃除をしたあと、電車に乗り紅茶の専門店、ムジカで遅目の昼食。SOPにムジカに行こうと誘ったとき、どうやっていくのと聞くので、電車でと答えると、それはムジカ行きの電車?と聞くので深く考えずにそうだよと答えると、勢いよく飛び出した。けれど大国町で電車を乗り換え座席に座るとSOPはこの電車はムジカ行き?と聞くのでいや、西梅田行きだよとmayakovが答えると、ムジカ行きという電車があると思っていたSOPはとても残念そうな顔をしていた。
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ぼくは電車のなかで少し前から断続的に読み継いでいるオルハン・パムクの『雪』を読み進めた。かつて西欧近代的な何かであるかぎりでの、左翼運動をした世代が、年を重ね、ある者は亡命し、道を見失い、ある者はいくらかなりとも原理主義的なイスラムの教えに近づいている。
「どうして誰もかれも宗教に熱中するのかな?」とKaは言った。
イペッキは答えなかった。二人はしばらく壁の所にある白黒のテレビを見ていた。
「どうしてこの町では皆が自殺するのだろう?」とKaは言った。
「皆ではないわ。自殺するのは若い娘たちよ」とイペッキが言った。「男たちは宗教に熱中する。女たちは自殺するのよ。」
- 作者: オルハン・パムク,和久井路子
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原理主義的な集団に関わるようになったかつての友人はみずからの「転向」の経緯を主人公に語ったあと、次のように続ける。
「まず信心深い者は全て謙虚で、優しくて、理解がある。西欧化した者たちのように、すぐ普通の人を軽蔑したりしない。憐れみ深く、自分自身が傷ついている。お前と知り合えば、好きになってくれる。きつい言葉は吐かない。」
だとするとすくなくとも、自分は信心深い者ではないな、などというようなことも思いながら、ふと社会政策学会の第六回大会で
私は工場法問題に付ては、博愛慈善の念と云ふ必要は少しもない、毛頭微塵もない、工場法の問題は、主従の関係に非ず、博愛慈善の問題に非ず、無論王者の問題にも非ず、覇者の問題でもない、そんな大きな王道だの博愛だのといふ立派な事を振り回さずとも、卑近なる我々の算盤玉の範囲で出来るといふ事を私は確信するのである、否、西洋の学者が確信して居るのを私は信仰して居るのである
と言った福田徳三のことを思い出して、しかしだからとってこういう「信仰告白」をすることもできない場所に置かれているなどということを考えたりしながら、西梅田で降りてムジカに。ちょうどティー・タイムだったのでかなり混んでおり、相席に。隣にすこし年下の女の子が座っており、SOPは少しばかり緊張気味でブルーに。ただしスコーンが来ると、SOPの脳はその80%がスコーンに占められ、緊張した状態は跡形もなく消え失せる。
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北新地周辺の細い道を通ってジュンクに裏側から入る。裏側から入ると漫画コーナー。漫画を大人買い。いましろたかしと萩尾望都の『バルバラ異界』。萩尾望都は『残酷な神が支配する』から少し遠ざかっていた。作品が必要とする以上に長くなっている、という印象があった。
が、よしながふみの『あのひととここだけのおしゃべり』を読んだせいか、ふと手にとって買ってしまう。ちなみにさすがにボーイズ・ラブ系のものはぜんぜん分からないが、三歳年下の妹がいたせいか、ほぼリアルタイムで同じものを読んでいたせいで、注にある固有名詞がひどく懐かしかった。
- 作者: よしながふみ
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南大阪に戻り、郊外型ショッピング・センターで夕飯。その後、また本屋によって、SOPに本を買う。SOPはスモールさんの出てくる話が最近はお気に入りだ。ロイス・レンスキー(Lois Lenski)というアメリカの絵本作家の書いたもの。wikiによると父親はプロシアからの移民でルター派の牧師だったとある。バスに乗り遅れたので、mayakovが服屋をざっと見ているあいだに、SOPが買ったばかりの本を読みたいというので袋から出してやる。読んでくれというものだとばかり思っていたら、どんどん自分で読み始めた。耳を傾ける。読んでもらうのはぼくであった。SOPが最後まで読み通したころ、ちょうどバスの時間になった。
家に帰ると、今度は読んでくれというので、ぼくが読んでSOPが聞いた。それから二人でお風呂に。
ちいさいじどうしゃ―スモールさんの絵本 (世界傑作絵本シリーズ―アメリカの絵本)
- 作者: ロイス・レンスキー,Lois Lenski,わたなべしげお
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SOPが寝たあと、『バルバラ異界』を一気読み。基本的にユング風のあれは難儀なのだが、そういうことはしかし吹っ飛んでしまう。最初にしっかりと読んだ萩尾望都の漫画が『スター・レッド』だった。親が何度、習い事や塾に行かせても、半年も経たぬうちに勝手に辞めてしまうので、ほとほと困ったあげくに、短大の英文科を出て田舎に帰ってきていた、ちょっと変わっていると評判の女の人のところに送り込まれた。結果的にはここも長くは続かなかったのだが、これはこっちの都合ではなくて向こうの都合だった。田舎が耐え難かったのかもしれない。主観的にはこのひととはずいぶん馬が合った。『スター・レッド』はこの人に教えてもらったのだ(萩尾望都作品としてはすでに『チャンピョン』の連載で「百億の昼と千億の夜」を読んでいるはず)。妹はまだ小学生ではあったので、まだ「なかよし」かせいぜい「りぼん」の時代ではなかろうか。そういう意味では初めての大人(?)の(少女)漫画であった。こんなに面白いものはないというほど興奮したのを覚えている。
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そういえばよしながふみのあの本には、くらもちふさこは出てくるが、岩館真理子は出てこなったような気がする。自分でレジまで持っていって買った最初の少女漫画は岩館真理子の『森子物語』であった。いまにして思うと、あれは少女漫画なのか、少女漫画のようなものなのか、微妙な感じもする漫画だった。
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しかしいま書きかけていたのは、『バルバラ異界』と萩尾望都であって、たしかに気がついてみると、萩尾望都はここしばらく「家族」を、カギ括弧付きでしかそう書けないような「家族」を書き続けている。さすがに集団というわけにはゆかないし、カップルとも違う。一族といえなくもないが、そういう意味では社会学的ないし人類学的に、広い意味をもってしまった「家族」でいいのかもしれない。そのかぎりでもうそこに描かれている感情は、恋愛が中心ではなくなっている。
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読み終わるまで意識しなかったが、「父親」と「子供」が描かれている。描かれてはいるのだが、ここでもカギ括弧をつけざるをえない感じがある。こればっかりはネタをばらすわけにはゆかないので、これ以上は書けないのだが。しかしそれは、普通の意味で父子ないしは親子の感情とはもう言えない、より普遍的であるというふうにもいえるが、ただ親子関係特有のあらゆるものに優先する私情のようなものが、物語を展開させるバネとなっているかぎりで、その普遍性は、自然史的な水準にあるのかもしれないと書きながらふと思う。そのかぎりでは描かれている対象が、「一族」という半ば生物学的な単位であるとすることも、その言葉に十分に広がりさえあたえられるのであれば、それもありかなと思うが、そこでは血のつながりだけがもはや重要な要素ではなくなっているだけに、やはり言葉の広がりとしては、「家族」というほうが、普通の意味ではもはや解体しつつある、あるいは解体したそれであったとしても、それでもなお「家族」と名指すことが許されるだろうから、やはり「家族」と呼んだほうがよいような気がする。
しかし進化論は(その個体がなんであれ)個体から出発し、個体にとどまりつつ語らざるをえず、それだけに、いわばその部分にひとの情動を惹きつける何かがある。それはかつて宗教が課題とした問題でもある。つまり運命と個体の・・・自由、だろうか。virtuだろうか。conatusだろうか。あるいは、たんに運命といえばそれで済む話なのか。
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すくなくとも狭い意味での倫理や道徳は、ここでは主題化されることはない。たしかにもうそれはどうでもよいことなのかもしれない。技術的に解決するしかない問題はそうするよりほかはないのであるし、耐えるほかない問題もそうするよりほかはない。考えるべきことは、もはやそのようなところにはないように思われる。さもなくば、もはや考えるべきことはもう存在しないのだろう。