魚喃キリコは

ていねいに書いてあるのがいいのだけれど、気分転換として読むにはしんどい場合があるので、たとえば『ハルチン』なんかよかろうと思って、買って読んでみた。これはまんま『るきさん』過ぎやしないか、と不安にはなったものだが、けれど『るきさん』とは決定的に違うところもある。どこかしら奇妙な不安感が漂っているのは、時代のせいなのだろうか。

失われた十年という言い方があるけれど、魚喃キリコはそんな時代を描いてしまっているところがある。これはもう勝手な思いこみというか、現実と漫画がごっちゃになった言い方になってしまうけれど、るきさんはいざとなれば、病院に戻って、看護婦をやれば大丈夫だ、手に職があるしな、という気がするのにたいして、ハルチンはどうにも不安だ。年金とかちゃんと免除申請しているだろうか、健康保険はどうしているのだろう、親のに入っているんだろうかとか。

ハルチン (Mag comics)

ハルチン (Mag comics)


魚喃キリコの書くもののなかで、こうした種類の不安はじょじょにその輪郭をハッキリさせてきているようにも見える。その意味でこれから何を書くのだろう、という期待はある。

魚喃キリコを買って読んだり、読み直したりしたのは、口直しという意味もあって、「おおきくふりかぶって」があんまりにもなってなかったから、もう少しちゃんとした人間の出てくる漫画が読みたかったというもあった。

まあ「おおきくふりかぶって」はモロ伝統的少女漫画というのか、紡木たくメソッド爆発のようなところはあるから、そういうことにあんまし目くじらをたててはいけないのかもしれない。ウンチク漫画としてはよくできているのだし。でも年を食うとさすがにエヴァンゲリオンの皮をかぶった紡木たくみたいなのは、ちょっとさすがにしんどくなってくる。

魚喃キリコの漫画を読んでゆくと、もう非常にうまい、とまでは思わないのものの、けれどやはり異性の、つまりこの場合は男性の描き方がやっぱりちゃんとしていて、出てくる男性の多くは、何を考えているのかあまりよくわからない、そういう意味では影の薄い存在になっている。こいつは何を考えているかわからんと読んでいてそう思うのだけれど、たぶん書いてるほうもなんかどこかわからないところがあって、結果的に、内面ではなく、外側を描かざるを得ない分、かえってきちんとした漫画になっているのだろう。

とはいえもう少しつっこんでほしい感じもあるけれど、

あと面白かったのはこれ。

なんというか、教えてきた学生のほとんど全員に読ませたい感じすらする。
フランスのバンド・デシネ。仏在住イラン人女性の自伝的作品。
革命後かつ戦争下のイランの知識人あるいは中産および上流階級が、ホメイニのイランをどう生き延びていったかが書かれている。
映画化され、カンヌで賞をとったようだけど、イランとの国際問題になっていたはずだ。

映画はこれ
http://www.sonypictures.com/classics/persepolis/
反知性主義にどう抗うかないしはどう耐えるかという問題でもある。テレビと新聞を中心とした現在の日本のメディアなり、それに乗っかってできた小泉なり安倍なりの政権、とくにその教育改革と称するものや、そこに呼び出されている人びとを見ていると、ほとんどポルポトだなあと思うときがある。反知性主義が非常にハッキリしているからだ。
いずれこの国は革命後のイランのような状況になるかもしれないとすら思う。可能性のひとつには過ぎないけれど、まあお父さんは心配性なのでな。じぶんはまあ何とでもなるし、何となってももう悔いはないけれど、SOPのことはちょっと考えておかないとならない。この漫画では主人公の両親(その階級)は主人公に外国語を教えておくという選択肢を選んだ。そして革命前のイランを支えた何らかの専門知識を持った人びとや財産を持った人びとは、子供たちを海外に脱出させるための準備をし続けていたし、あらゆる機会をとらえて、じっさいにそうした。いわば一種の疎開だ。

ちなみに、貧しい人びとは、たまたま悪い時期に14歳くらいだったら、プラスチックでできた鍵をもらって戦場に行って、地雷原に突っ込まされて死んだようだ。

中の下の、それほど財産のない、しかし教育のある者で不幸にして不満を口と行動に出さざるをえなかった者は、無慈悲に処刑されたようだ。たぶんおれはこれだっただろうなあ、と思う(仮定法過去)。

この間、ひょっとすると、不況になってからだとは思うけれど、メディアは強迫的に『敵』を探し続けてきた。いや「悪」というべきだろうか。いまはもうほとんど最終段階に近づいているようにも思う。
ついこのあいだまで、その敵は福祉であったり、医療であったり、いずれにせよ平等を守ろうとしてきた部分だった。主観的にはたとえば年金問題や医療問題をなんとかしようと思っているのだろうが、客観的には福祉や平等を支えてきたインフラの破壊に手を貸している。敵のないところにむりやり敵を作り出そうとしているからだ。主観的には彼らは平等なり「左」の価値観なりを守ろうとしているだろうが、結果はつねに逆になっている。

そういえば平等という言葉もいつしかメディアの中で「悪」という言葉を伴わずに、用いられなくなってしまった。福祉は平等であり、平等を目指さない福祉はない。しかもそれは機会の平等ではなく結果の平等だ。所得の再分配とはこの結果の平等以外の何物でもない。もう少し穏当に言い換えれば、福祉が支えてきたものは、社会の一体性であり、それを支えられなくなるのならば、革命になるというのは、これはしかしほとんど定義の問題だ。

敵を探し続けてきた結果は、当然のことだが矮小化された万人の万人にたいする闘争だ。それがメディア自身に向くのは避けようがない。いま少し長く、被害者意識を抱きしめておくには、さらなる敵が必要だ。それは果たしてどこに? 産科医ではなければ、おそらく官僚だろう。大物政治家とスポンサーは上の方からストップがかかるし、スポンサーのお客さんに悪口を言うわけにはいかない(自虐史観は左もあまりお好みではない)。

いっぽうでメディアがさかんに持ち上げるのは民衆のアヘン、スピリチュアルなものとやら。しかしそれは必然的ですらある。いや、「悪」というのはやはり宗教的なところがある。

しかし公共の電波で、拝み屋の宣伝というのは、素朴に犯罪だとは思うが、しかし正義の味方はもうすこし小規模な犯罪がお好みのようで、あまりニュースはその弊害(被害?)を取り上げてくれない。

いずれにせよ、自分の正義感を根拠なく肯定するためには便利なものとそうでないものがあるわけで、かくして、現在、メディアは反知性主義を手放すことができないのだが、困ったことに、これは貧富の差の拡大と適合的である。おそらくそのツケはいつかは支払わねばならない。

などということをぼんやりと思いながら、あと時間はどれくらい残されているのだろうなあとふと思ったり。心配性なのでね。