むかし、わたしは*****(某有名人学者兼物書き)のようになりたい、とぬけぬけと言い放った人の話を聞いて、うげえと思ったことがある。そんないい年して、まだそんなことを人生の導きの糸にしているのかと、なんというか病の深さというか、ああ書くべきものがないのもわかるわ、という感想をもった。(どう考えても内容がないのに、注文と締め切りがあるにせよ、どうしてこのひとは文章を書けるんだろうと不思議に思っていたものだ。)

誰かの「ファン」になったらあかんよ、と大学院行きたいというひとにはそういうことにしている(やめとけ、とまずは言うけれど)。

それでもむかしはカラタニコウジンやアサダアキラやハスミシゲヒコに読んでもらって褒められたい、というのがものを書く動機になっているひとが多かったように思う。まあ若いうちなら分からんでもない。ただ若い自分にそうだったひとが最近中年になってどうなっているかというと、たぶんアホほど増えた政府系だったり、その周辺の審議会(マスコミ含む)に呼ばれること漠然と期待しながらあいかわらずものを書いているのではないだろうか。

まあそういう「知識人」対策だと考えれば、最近増えている微妙な感じの審議会の存在価値も分かるし、なぜやたらめったら増えているかもよく分かる。適当に立場もカラフルにしておいたほうがいい。呼ばれれば正解だし、呼ばれなければいろいろ立場を変えてみないといけない。はっきりと意識しているかどうかは別だが、他人に耳を傾けてもらうこと、あるいは褒めてもらうことを唯一の基準にしてものを書いていれば、おのずとそうなるだろう。内容の変化はそう考えるとつじつまが合う(あまりに内容が変化している場合は)。

学者とて(事実上)公務員だ。斜陽産業であるところの物書きもじょじょに一種の保護産業になりかかっているということだろう。批評が大学に回収されつつあるのはそういうことだったのだろうし。

もっぱら出版業で飯を食っていない、ということになれば、特にそうなりやすいかもしれない。踏み台になっているということでもある。そういうひとは、そのうち読者が疎ましくなるのではなかろうか。

まあみんな頑張ろう。