メモ

うっかり読んでしまったので。
http://blog.tatsuru.com/2007/01/12_0936.php
上の文章で述べられていることが可能となるための条件を真面目に考えてみた。
その場合大学はおおざっぱに言って
1.
a. 社会的に高い威信ないし特権
b. 誰からも無視されるゴミのような地位
のいずれか
2.
a. 授業料収入ないし税金による財政補助に依存しないだけの財政的基盤
b. 古典語への愛に溢れる一定数の学生による授業料収入(およびそれにほだされた市民の貢献contribution、つまり税金)
のいずれかの条件を満足する必要があろう。

じつは2の条件には抜け道があって、教えるスタッフの側のコストを下げるという手もある。もっとラディカルに考えると、学生からではなく教師から金を取るというのがある。いわば駄目な商店街方式(三宮ですらじょじょにそうなりつつある)で、客から金を取るのではなくて、ファンシーな店をやりたいとか、カフェをやりたいとか馬鹿なことを抜かしているボンボンやお嬢から家賃をバンバン取って、金が続かなくなったところでお引き取り願って、次のボンボンやお嬢にご登場ねがうやり方である。この場合、客への依存を減らすことができる。
昔の大学の教師(とくに文学)は、身も蓋もなくいうとそういうシステムではなかったかと思う(さすがに世代単位だが)。大きな声では言えないが(いずれまたそうなるよ)。

友人(とくにnymarと)大学の大衆化をときどきは嘆くのだが、でも最後にはおれたちが大学の教師でございとか言ってられるのは大衆化のおかげだよなあという結論に落ち着いてしまう。

三十年ぐらいで進学率が倍になっているのだが、学生のことばっかりひとはわあわあいうが、落ち着いて考えると、教師のほうもそれに合わせてやたらめったらに増やしている。語学の教師(とくに英語)とかは昔はえり好みしなければ修士を出るか出ないかですぐに就職があったりしたわけだ。そのころはまだ進学率が低く、大学院ともなると、そりゃもっと低いわけだし、つまりまあなんというか競争は一定以上の収入のあるおうちの子のあいだにしか存在しなかったわけだから、現在の状況から見るとはげしくぬるい。(今はそうやって増えた教員の数に合わせて大学院生も増やしたから、適正な競争の範囲を超えて、ちょっとやばいんじゃないの、ということになっている。)
だからまあ世の中のひと(おもにマスコミ方面だな)も、いろいろ文句があるのだろうが、しかしそれは社会が望んだことの結果でもある。ともかくみんな大学に行きたかったわけだし、大学の教師は必要だったのだ。そうしてみんなが大卒の肩書きを手に入れたのだ。経済学の知恵を借りなくても、そりゃいろんな人が教師になったのだろうと思うが、それはしかしお互い様の時代ではあったのだ。
そして彼/女たちはちょうど老後で、こんどはまた物言う消費者様として、きっと放送局に抗議の電話や新聞に世を憂う投書とかする準備を着々と進めているし、すでにキッチリ(人によっては二度目の)退職金をもらっていそいそ投書とかしているかもしれない。ずるいと思うかもしれないが、おれも正直ずるいと思うよ。とはいえちゃんとした専門の論文も書かず、授業だけしかしていない(できないし望まれてもいない)ふつうのその他大勢教員なので、あまり人のことは言えないし言うと天に唾することになる。

ともかく状況がこういうわけだから、この商売が今後順調に進むとはとても思えない。近世の歌学をやっているnymarと専門と呼べるようなものはもはや何も持っていないおれのどちらの未来が明るいのかはまるでわかりはしないが、ともかく銭にならないことは間違いはないわけでつぶしのきかないことこのうえない。何があってもおかしくはないと思っている。
けどまあ、今までは、こうやって広がった隙間でニッチ宜しく気ままに大昔の人の書いた文章を読ませてもらって、そのうえときどきは学生さんに説教までさせてもらっていい気になっていたわけだから、女子教育方面と専門教育(つまり職業教育)方面には足を向けては寝られない。方角的にどっちなのかよく分からないのだが、お星様になっていたりすると、上の方なので、どっちに向けても大丈夫だ。
去年あたりから、就職状況は嘘のように好転し、数年前までの悪夢はしかし嘘のようなことになっている。だからいっそうブランド校でなかったわが勤務校のあの時期の卒業生たちはどうしているのだろうと、今年の学生の内定の話を聞くたびにそう思った。あのころは、たとえ就職はできても、しかし実質肉体労働のような職場が少なからずあった。名前で判断してはいけないのだろうが、しかしそれにしても、名前が微妙にあやしげな先物の会社とかが就職先一覧にあると、やはり少なからず不安になる。たんに社長のセンスが悪いだけかもしれないから、名前で判断してはいけないのだが。トラブルがあって労基署が呆れるような会社もあった。
それと比べると耳に入ってくるかぎりでは今年などはまごうことなく安全そうな会社のホワイトカラーというのがずいぶんと多い。先のことはわからないがしかしひとときのことであれ、やはりよかったなあと思う。

知育(instruction)にたいして徳育(education)というのがある。道徳教育のことなのだが、しかしヨーロッパ(特にフランスでの)議論をよくよく読んでいくと、神様っぽいのが出てくるようなのはわりと例外的で、そのほとんどが職業(経済)教育と政治教育のことだ。つまり市民というのは働いて意思表示するのがベースだから、モラールというのは社会の安定のためのものである以上、大方の場合、最終的には政治(投票/議論)と経済(労働)に帰着する。征南大学の胸毛マンという研究者も言っているが、19世紀ぐらいになれば、道徳的というのは社会的という単語と相当に互換性が高い。
さらにいうと政治参加の度合いはだいたい納税額で差があるから、あまねく平等に適用されるのは職業教育ということになる。さらにさらに真面目に考えてゆくと、ボリューム・ゾーン以下のところは結局は学校じゃなくてもいいじゃん、ということになるし、学校でやるならハイクォリティなものにしないとな、とか、だいたい変わり映えのしない話に落ちてゆく。まあそれはともかく。
伝統的には、万人向けの徳育=道徳教育は、近代社会では職業教育であるというのが、最大公約数的な回答だ。この自立という物語の作動なしに、いまのところデモクラシーを正当化する万人向けの理屈が立たないからだ。だからまあ上から見ている限りはこのへんがリミットになる。(なのにこの議論が蒸し返されるのは、問題が目の届きにくい現場の適用のところで発生するからだろう。)

別にフェミではないし運動というのは遠くで見ておくにかぎるし、そもそも運動はなんであれかかわるのは一個でも多すぎるぐらいなので、是非ともお互いに幸せな距離を保っていたいと思っているのだが、食わせてもらってありがとうという負い目というか負債の感覚は一生とれまい。できる範囲のことはしたつもりではあるが。

この一週間、学校の本も捨てるというので、さすがにこれは捨ててはいけないだろうという本を延々と選定し、それとは逆に、自分の研究室も引っ越しなので、捨てる本を埃まみれになりながら延々と選定していた。廊下にでも並べて学生に持ってゆかそうと思っていたのだが、大学を卒業して以来ほとんど本は捨てたことがなかったので、われながらひどいことになっている。貯金もせず、それどころか借金だけはあったりするのだが、そのあげくかこれかというような愚かな本が大量に存在する。埃で喉がやられて、咳が止まらないし。しかしこの誰に宛てて書かれたり訳されたりしたのかさっぱりわからない本や雑誌の山が、じぶんの中途半端な知識そのものなのだ。たこ足だったということだ。たことて、八本までしかあるまいよ。
さすがにうんざりしているだけではすむまい。
いつかしっぺ返しがくるのであろうよ。(いやもうすでにきつつあるのか?)