さて

明日はデモがあるので、出かけることにしようと思う(SOP次第)。大阪のシンボルであるお城の近くの野外音楽堂で1:30からだ。そんなことして何になるのだという人も多かろうが、高校生(あるいは中学生か?)のころから一貫して、こういう無駄なことばかりしている。というかそういう無駄に無駄に耐えてきたのが左翼だ。いやもう左翼ではないのかもしれないが、ともかく教育改革を叫んでいる奴らの宗教臭さが気に入らない。ああいう新興宗教の信者みたいなのが、ウロウロしているような界隈のやつらに基本法をいじられたくはない。いや正味の話、「人格」という概念も気に入らないのだが、まあそれはこのさい目をつぶる。

まだうら若き十代のころは正論が通らないと悲憤慷慨したものだが、さすがに高校もなかばを過ぎると、そんなこともなくなる。というか悲憤慷慨というと、最近は、テレビの影響か、政治を持ち込むな、世界中のあらゆる場所は中立無職のみなさまのNHKでないと嫌だと駄々をこねる若い人がWEBには多くて当惑する。いきなり政党の宣伝をサッカー場でやられればそれはちょっとTPOを弁えろという議論になるとは思うが、ある種の政治課題についての議論は、そりゃ、いろんなところでやるというのが民主主義というか共和主義のお約束だろう。ねえ、麻生先生。

それにしても、ちょっと政治問題が絡むと例外なくヒステリックに政治を持ち込むなと騒ぎ立てるのだ。クールに(というか仕方なしに、だな正確には)議論すればいいのに。異常に特別な議論だと思いこみすぎだ。それより新興宗教もどきの議論が政治や教育の場面や、テレビなんかの巨大メディアに混入するのにたいして、異常に寛容なのをなんとかしてくれ(これは右も左もだ)。

つうか近代社会では宗教については混ぜるとやっかいなので政治(公的な世界)からは切り離しといて、世俗の問題だけ議論しましょうというのが最初の設計だったはずなのになあ。なんで逆になってるんだ。シンボルに頭下げないと駄目って、偶像崇拝させてどうすんだよ。一神教以前じゃねえか。

それに左翼がどうとか、プロ市民だとか、だいたい運動ゴロみたいな奴の議論なんて、オレの年代ですら、もう実際には知らない奴がほとんどだ。よほどコアな関係者にでもならなければ、いまやお目にかかることもなかろうにと思うのだが、いったいどこでそんなものに出会ったというのだろう(ネットの政治談義とか、学校で教師がやったりするようなヌルいやつがそうだと思っているんだろうか)。

要するに学級会のノリが嫌だというだけではないかと思うのだが、それは政治的言語を排除すればなくなるというようなものではないぞ。個人的には優等生のノリというのは嫌いではないので、お任せしておいて別にイイじゃないかと思うのだが、なんでヒステリックにいやがるのか。後ろのほうで落書きしたり、茶々いれたりしてればいいし楽じゃないか。たしかに、うざい感じがするのもわからないではないが、そんなこと言ってもおなじ学級会ノリで、***クン/サンは学級会に政治の問題を持ち込もうとしていまーす。学校なのにヨクナイと思いますとか、やっても学級会を出たことにはならないのとちがうだろうか。(イイ/ワルイが最初から決まってる感じなのが嫌なんだろう?)

ああ、変なことを書いてしまった。言いたかったのは、Simone Goyard-Fabreはあんまし読んでて面白くないということだ。細かいことはよく知ってるけどな。