体調が悪いので

風邪かと思っていたら、花粉症のようだ。春のみならず秋まで花粉に苦しめられることになるとは。

むかし琵琶湖で鯨が捕れた

むかし琵琶湖で鯨が捕れた

この三人のなかでは山田先生が少し若い。(河合隼雄'28, 中西進'29, 山田慶兒'32)
栴檀は双葉より芳しいエピソード

 大人とか国とか新聞とか、うそをつくものだという発見がいろいろありましたね。子供だった僕は子供の持つ単純な疑問を抱きました。
 一番はじめに国が嘘をつくということを僕が発見したのは真珠湾攻撃のときですよ。五隻の特殊潜行艇が出撃したというんですが、9人しか死んでいない・・・・いろいろ仮説をつくって検討した結果、・・・どこかで一人ごまかしていると。実は捕虜になっていたことが戦後に分かったのです

くりかえすが1932年うまれである。

 それから注意して新聞を読むようになりました。あるとき、小さい記事で中国の何かという町を占領したと書いてあるんです。おかしいな、たしか一月前に同じ町を占領したという記事があったぞ。古い新聞を引き出してみるとちゃんとある・・・・。二回目の場合、論理的には二つしかあり得ない。その町には日本軍がいたか中国軍がいたかどちらかである。前者なら日本軍同士が戦争をしたことになるが、これはどうもありそうにない。とすると後者だということになる。一回目の占領と結びつけると、日本軍は一度負けたに違いない。何しろ皇軍は不敗ということになっていましたからね。僕はそのとき負けることを発見したんです。小学校五年生の時のことです。

特別製の頭というのがあることがよくわかる。

じゃあ先生に聞いてみようと思って、女の先生でしたが、先生もぽかーんとしている。これはいかんと思いました。ですから、その後は何か発見しても誰にもいわなかったんです。いっても大人には分からないと思いました。

ただ同じこの人が別の書物のなかでは次のような中国の姿を(今読むとそこかしこに留保のしるしを認めることもまたできるのだが)肯定的に紹介していることも指摘しておかないといけないかもしれない。

「・・・以前はわたくしたちは点数のために働きました。今は革命のために働いています。生きてゆくために働かなければならぬと考えていた農民が、中国革命のために働くのだと考えるようになってきたのです。」
まるで黄いろい大地そのものから生まれたような、日焼けした、筋骨たくましい貧農・下層中農の青年たちが、口々に力を込めてそう語るのであった。

もうひとつ別の証言もその同じ書物では紹介されており、そこからその文章がどのような時期に書かれたかがはっきりと分かる。

「この公社にも紅衛兵と造反隊の組織が生まれました。かれらは元の委員会を批判し、反動路線を批判し、実権派と戦いました。・・・私は元党委員会の責任者のひとりです。ブルジョア反動路線をつらぬき、広汎な革命的群衆と紅衛兵を抑えつけてきました。革命的造反隊はわたくしのあやまりを批判し、わたくしのあやまった思想を批判して、わたくしを左派に引っ張り戻そうとしました。
 3月29日に造反派の大会が開かれました。そこでわたくしは自己批判する機会をあたえられました。わたくしの自己批判をみんなは認めてくれ、わたくしを造反隊に入れてくれました。わたくしは感動して、壇上でおもわず毛主席万歳を叫んだのです。造反隊の助力によって、わたくしは毛主席の革命路線に立ちもどることができました。いまは造反隊といっしょに働いています。わたくしは人生を歩きなおしはじめた学生です」。

 孫さんは公社の出身者ではない。顔がまるでちがう。おそらくは都市の中産階級の出身だ。大学を卒業後、共産党の専任の活動家としていろんな機関や公社の書記をつとめてきたひとであろうか。まじめな人柄とみうけられた。それだけに、等の政策をきわめて忠実に実行してきたに違いない。疑うことを知らず、私心もなく、生真面目に。かれは批判された。忠実な書記であったがゆえにである。しかしその人柄を憎むものはひとりもいなかった。だからこそ、たった一回の自己批判で公社のひとたちにうけいれられたのだ。孫さんの言葉に耳を傾けながら、わたしはそんな想像をめぐらせていた。

ここからもし教訓があるとすれば、間違えずにいることは誰にもできないという、凡庸な事実の確認ということにはなろう。もっとも、いまとなっては二重三重に苦いものを感じざるを得ないこの文章はしかし、むしろそこに描かれた内容の点で、この国ではいまや他人ごとでもないらしく、どうやらすでになにか重大な間違いをしでかしたわれわれは、もっと別の教訓を引き出すべきなのかもしれないが。