読み直したら

ひどく混乱していたので書き直すことに。

ほんとうは労働契約法についてのべんきょうもしないといけないのだが、さすがに手が回らない。ネットを回ってはちらちらと覗いてみたりもするのだが、仕事に差し支えるのでなかなか本格的にはならない。そうこうしているうちに、解雇要件や懲戒処分の相場やら、セクハラの基準やら就業規則の外出し規定のチェックなどもはいってくるので、なかのひととしては目の前の業務の処理を優先しないといけない。

この間の改革やらなんやらを通じてはっきりしてきたことは、いわゆる自己責任話にもつながるのだが、個々の労働者に非常に負担を強いる仕組みになってきていることだ。とくに大学というところは官僚組織の整備が不十分だったせいで、その奇妙なカリカチュアになっているところがある。つまり管理する自分が管理される自分でもあるという矛盾がわりあいとよく見えるというか、最近まで旧態依然としていたせいで、そこで起きた変化の過程をつぶさに体験した結果、矛盾が矛盾であるという、理屈ではわかっていたあたりまえの事実がようやく腑に落ちてきたということはある。
この自己の管理は、一義的には、個体のレベルでの自己統御ではなく、集団が集団としてやっている自己統御であり、ただしそれを最終的に引き受けるのが個人であるということだ。なぜ大学がその矛盾のポンチ絵になるかというと、直接民主制をいまだにフィクションとしては維持しようとしているからである。直接民主制というのは、これ非常に「強い」個人を前提とする。昔であれば、文字通り腕力が強ければよかったわけだが、社会秩序の維持が、腕力からそれ以外のものに文明化したせいで、求められている強い個人も、それにあわせて変わってしまっている。
もっとも、それがやれる程度のエリートであるというフィクションが昔はあったということなのだろうが、使う頭がそれとこれとは違う、ということもあれば、同じ種類の頭をもっていても本来業務のついでにやることとしてはじょじょに無理が来ているということもある。

ひらたい話をすれば、大学行政の組織の一員としては部分的な仕事に従事すればいいだけなので安心して理想を追求していると、あっちでもこっちでも同じようにベストが尽くされているということに気が回らなくなってしまう。けれどひとたび組織に管理される立場にまわると、さまざまなすだれ型組織(つまり縦割り組織)があれこれ言いつける仕事が、(以前と比べてだが)どんどん増大してゆく、ということでもある。べつにそれだけなら話は簡単だが、民主的というか平等な組織原理を維持しているものだから、無理矢理押しつけるようなこともせず、いちいち合意を呼びかけてくる。やっかいなのはむしろこっちのほうだとも言える。
むろんすべてに反応する必要はないのだが、反応すべきかしなくてもよいか、判断はしないとまずい。だが適切に判断しようと思うとあれこれと知らねばならないことが多く、結果的に左右を見ながらとりあえず言われた最低限のことだけをやるということになる。つまりは深く考えることはせず、単純作業のみを粛々とやって要請に応えることになる。だがそれは制度の想定しているような事態では必ずしもない。どこかで強い個人モデルで考えて、理想的にそれらが検討され合意され処理されているのだという風に表面上はしているのではないか。それを避けようとすればとうぜん歴史的に見ても間接的な民主主義原理を採用するか、業務そのものを単純化するしかない。いまのところ、いろいろなところから求められている、あれもこれもやろうとしているから、方向性としては前者、ということになるが、なかなかそうはならない。

本来は管理職やらトップに近い部門が、優先順位をつけたり、仕事を切ったりするか、意志決定の制度をそれに合わせて変えるべきなのだろうが、大学の管理業務としてそういう仕事があることに思い至る偉い人はすごく少ない、というか皆無ではなかろうか。制度は変えたし、昔とちがってもっと効率的に理想を追求できるはずだと単純に思っていたような節がある。ただそれはむしろ現場の仕事だから、本人たちの仕事ではなくなってしまっており、そのことに困惑しているというのがあちこちの大学でこの間みられたような事態ではなかろうか。

上(管理側)も下(一般教員)も中(個別運営業務)も、そういうわけで不満というか、ストレスがたまっている。ここしばらくの大学はこんな感じだったのではなかろうか。

あたらしい労働法制のプランを見るとそういう傾向を加速しそうな印象がある。結果的には組合のような専門組織が肩代わりするか、個別に専門家を雇って対応するか、どっちかしかないようにも思う。
いずれ法律家の数が増えるわけだから、個人個人がそうしたコンサルタントと契約するという方向をとればいいのだろうが、しかし過渡期においては相当に混乱するだろうと思うのは、大企業はいざしらず、しっかりした組合をもっているところばかりではないから、自分の身や労働条件を守るには、短期的には個々人が非常に賢明であらねばならなくなってきているのではないかという印象がある。
いっぽう、中の人なのでゲームのルールを変える方よりは、ともかく最低限新しく変わりそうなゲームのルールに適応する準備を整えておかねばならず、そういう場合はついつい最悪の条件からスタートするから、どうしても将来に対しては悲観的になる。とはいえ、新しい方向性にはかなりビビる。おそらくは大きな組合で専従職員を抱えてやれるような体制をとれるところでないとしんどいような気もする。

違う側面から見ると各法人というか組織が個別に法的紛争の処理のための組織と手続きを整備しないといけないのだが、つまりはそれは統治機構がどんどん下におりてくるわけで、行政機能だけでなく、立法機能や司法機能をもあるていど整備しないといけないということになるようにも見える。
むろん過渡期はいつまでも続かず、法律家やコンサルタントがいろいろと業務の定型化はやってくれるだろうが、たしかにコンサルするだけなら、わりあいと気楽にやれるにせよ、実務としてそういった制度作りや、運用やそのさいに発生するトラブルのあれこれを想像すると、ちょっと空恐ろしくなり、恐ろしくなるから、ついつい目をつぶってしまう。しかし全体がちゃんと見通せないからビビリもするわけで、きちんと構造を把握すればよいのだろうが、そんな時間はさかさに振っても出ない。

身も蓋もなくいうとそんなマンパワーもってるところは少ないんじゃないだろうか。

ビジネスチャンスでもあることは確かなのだが、しかしそれはおれのビジネスではないんだよな。

社会はほんとうに複雑に、高度になるなあ。なんとなくハイテクを装備してジャングルで個別行動するグリーンベレーみたいな気持ちになる。(けっきょくうまくはゆかず遭難するわけだが。)

そういうわけで、ゆうべ遅く、眠い頭で考えていたのはそんなことだろう?>自分。