デモクラシー

の時代において、卓越の問題はきわめて厄介だ。青い血やメリトクラシーという回答が信じられた時代は幸いであった。
ネコを殺す作家の話に暗澹とするのは、そのあまりの凡庸さである。同じような内容の文章を、ほとんど毎年のレポート試験に発見できるという程度の凡庸さである。守秘義務があるのが残念だ。いわば流通しつくして、すり切れたまましかし陳列棚の目立つところに置かれ続ける商品であり、コンビニで買える程度のお安い紋切り型の作文であり、それを書いている人間のみがその文章の「特別さ」を信じることのできるグロテスクな凡庸さである。
海と山に囲まれて育ったから生き物の死は日常であり、いまどきの都会ではついぞ見られぬような生物への虐待を見て育った。山と海に囲まれて育てば情操が豊かになるなどというのは幻想であるが、べつにそこに特別に崇高な思想などというものはない。弱いものの死は痛ましいだけだ。なんとかして生きようとしている生き物の「努力」を尊重せず、あえて死に至らしめるのはおぞましい。お手軽な小銭で買える程度の自己愛しかそこには見いだせないからだ。
都会から山と海しかない場所にいって得られたのは、結局他者の承認を得たいという凡庸な焦りでしかなく、しかしみずからの卓越性を証明するはずの確実な何かの欠落に直面することに恐怖するあまり、結局はコンビニに売っている凡庸な紋切り型に手を伸ばし、我を敬えと声高に訴え周囲を見渡すその小心さが悲しい。どうせ歯止めの効かない自慰行為のエスカレートでしかないのであれば、それをそのまま出せばよかろうにと思う。どれほど甘く見積もっても70年代に終わった行為ではあるが、その程度のものでちょうどいいだろう。

われわれが自然の一部だというなら、食えばよかったのだ。飼育すればよかったのだ。ビールを飲ませ、太らせ、肉を軟らかくし、曾祖父が飼っていた鶏にそうしたように、くびり殺し、日本中、世界中でやられているように、捌き、塩をまぶし、胡椒を振りかけ、バターでソテーすればよかったのだ。交配を重ね、品種改良をし、飼料を運び、搾乳し、品評会にかければよかったのだ。数を増やし、借金し、開墾し、人を雇い、解雇すればよかったのだ。そうすれば出来合のインスタント「思想」に寄りかかることなく、文化的なる営みに一歩近づき、自然の一部となれただろうに。