国民は

数であり、声と名前を持つことはできない。representantの訳語である、代議士とはそれゆえ、国民に代わり、国民を代表して議論する市民、過去においては剣と、その剣によって守るべき土地を持った「士」、それゆえに名誉とともに汚名とともに死ぬことのできた者の末裔である。国民は彼らの名前、固有名によってはじめて声を獲得するが、国民としてはやはり数であり、無名のものにとどまる。

南京でもアウシュビッツでも東京でも広島でもドレスデンでも、世界中のあらゆるところで、ひとびとは数のまま死に、数のまま死者となる。

名前はそれを覚えている生者のなかにのみあり、生者とともに消える。この太郎はあの太郎ではなく、声か肉によってのみつながるそれは、私的であり、私的であるがゆえに永遠ではない。

あまりにメタ的な考察であった昨日のエントリーに付け加えることがあるとすれば、靖国は、少なくともぼくの目にはもう無名の者たちの墓となる機会を永遠に奪われたように見える。それが合祀の結果なのか、あるいはもっと前からそうなのか、あるいはこの数ヶ月のあいだにそうなったのかわからないが。
私的であることと公的とされたことが矛盾しない者、あるいは少なくともその二つの領域が地続きとされた世界の者、その私的な世界の先に、生身の声を持った生き神に、この国で唯ひとり氏を持たない存在につながる者、あるいはつながりうると想像可能な者、生まれつきあるいは、その能力によって声と名を持つとされた者から、その彼、彼女らの固有名から、靖国をもはや永遠に切り離すことはできないだろう。
今後靖国はそうした名とともに、そうした名を持った者たちの社として存在してゆくのだろう。
そのことは心底痛ましいと思うが、それとは別になぜそのようにしなければならなかったのか、名と声を、名声を上げたあるいは名声高き者らの世界に生きてきたわけではないぼくには、わからない。いったい何を望んでおり、どうしたいのだろう。どうしたかったのだろう。そういう疑問は残る。

その意味では、氏を持たぬかのひとも、身を引いてしまっていたということか。違う理由で、だろうが。