クリシェあるいはイデオロギー

昨日の日記に書いたことは、

私のフィールドについて言えば、「どうして売春するの?」「お金がほしいから」といったコミュニケーションはマッチポンプ的定型のひとつであり、これ自身はいかなる情報ももたらさない。女子高生たちはそうした答えが期待されていることをよく知っているし、そう答えれば自分の内面に踏み込まれないで済むことも弁えている。ところが読者の多くがマスコミ記事や、あるいは大学教員までもが「最近の女子高生たちは資本主義的な金儲け主義に毒されている」などと書いている・・・

それゆえに必要なのは、こうした会話を糸口として、中立さをかなぐり捨て、インフォーマントである女子高生たちに介入することである。

そこで要求されているのは、役立たない「無垢さ」や「中立さ」であるよりは、むしろ巧妙な「意地の悪さ」だと言える。たとえば私は「どうして売春するの?」「お金がほしいから」といった安全なやりとりは、むしろ相手の警戒心を解くための取材活動のオードブルにすぎない。この種のやりとりの向こう側に踏み破っていくことこそが必要なのだ。しかも「精神科医と患者」のような踏み破りの安全を保障する既知の制度的役割関係のないところで。

と書く(おそらく36歳の)宮台真司とさほど違うことを書いたわけではない。まともな研究者なら意識的にせよ無意識的にせよ、対象との関係はつねにこうしたものになるのではないか。「マッチポンプ的定型」あるいは「クリシェ」を逃れることは不可能とは言わないまでも、かなり困難なことであって、よほど命がけで論文を書くのでなければ、そうした定型によってこそ、意見や見解を経済的に形成し発表できるのであろう。
ただクリシェというにせよ、イデオロギーと言うにせよ、そうした定型は定型化されているがゆえにそれ相応の理論的な負荷がかけられているわけで、そういう論文書きを飯の種にしていない者が、(今年はましだったが)就職活動で忙しいさなかに、論文なるものを課され、日常生活では行われることのない長文を書かされた場合には、単数のクリシェから出発して過不足なく見解を見事に構成しえた場合を除くと、曖昧な意見あるいは印象を「表現」しようとして、しばしば複数のクリシェを用いることになって、そこに矛盾が発生する。それは同時に(良心的に書かれたものであれば、だが)クリシェではうまく表現できない新しい概念ないしは傾聴に値する少数意見であることのしるしであるとも言える。

アルチュセールが『資本論を読む』の前半で言っているのは、そういうことだ。

いっぱんにしかし大学教育はいっぽうでそうしたクリシェないしは定型ないしはイデオロギーを効率的に教える場所でもあり、事実そうした機械的な図式の適用が、いまだ一般的になされていない場合には、むしろ目から鱗を落とさせる「理論」と称されてもいる。これは大学生に限ったことではなく、大学院生も、教員も、使う「理論」に多少の鮮度の違いがあるくらいのもので、質的な違いはそこにはない。むしろ制度化が進み、その作法を身につけてゆくにつれて、矛盾する複数のクリシェによってしかとりあえずは表現できないようななにかにたいする感受性を鈍化させてゆくあるいは目をつぶることになるのは当然でありまた必要なことでもある。そういう意味では、やはり卒論のような場にこそ、むしろ面白いものが出てくる理由ともなっているのであろうなあ。

それとも、これで飯を食っている物として、学問は彼女らにどのように役に立っている、あるいは何をもたらしたのであろうということが、死ぬほど気になってしょうがないからついついしつこく「内面」めいた世界をのぞき込もうとしてしまうのだろうか。

正直、これで飯を食っていていいのかいまだによく分からないので、大学の教師はけしからんといわれると、そうかもなとも思う。ほとんどの場合それは自分のやるべきことを見失った者の嫉妬なんだろうと、冷静に考えるとそう思うんだが、やはりどこかで、ほんとうにこれでいいんだろうか、というあやふやな気分を免れることはできない。

同僚を見渡すと、ええとこの子は、わりとしかしそういう疑念から相対的に自由であるようだが、これは余分な感想だな。