徹夜は

何度やってもしんどい。それにしても外国語の能力は遅々として向上せず、ひいてはそれが徹夜の原因となっているのであれば、仕方なきこととてあきらめるよりほかはない。とはいえ一回分の講義をただ読むだけで徹夜せんならんのが、そもそもおかしい。が、まあゆうてもしゃあない。
それはともかくフーコーの講義にはたびたび感心させられるのだが、今回もやはりうならされた。学識について、ではなく(いや、当然それはすごいのだが)大胆な仮説を勇気を持って提示するその態度にである。コレージュ・ド・フランスといえば、たしかにアカデミックなポストとしては微妙な位置でもあるのだろうが、とはいえなんらかの意味で「中心」であることには変わりなく、なかなか失敗の許されるような場所ではない。その中で、むろんそれなり周到な準備のうえにであったにせよ、毎年毎年一定の質の講義を行い、なおかつ、大胆な仮説を提示してゆくというその胆力にはうならされる。いやいや大胆にナントヤラだ。
しかし丁寧に彼の講義を追いかけながらふたたび『性の歴史』に立ち戻ると、ぼんやりとこの仕事の射程が見えても来るのだが、こうした大きな射程のもとでなされた、しばし荒くもあれば同時に(不可避的に)粗くもあるような、こうした仮説ないしは構えについて、そしてそれを表明する勇気と不安と、それがどれほど同時代の者らに理解されたのだろうかとも思う。が、こればかりは彼の地での経験が不足している僕にはよく分からない。(20年前のパリはどのような場所だったのか・・・)それが孤独であったのか、必ずしも孤独ではなかったのか。こういうことを考えるとふと「フーコーについて」の興味が出てきてしまう。そういう類の仕事はやらない約束なのだが。

林達夫とその時代

林達夫とその時代

徹夜明けなので少しリラックスできるものをと渡邊一民『林達夫とその時代』の残っていた部分を読み終える。途中で、あ、これはフーコーが出てくるな(渡邊氏は『言葉と物』の翻訳者でもある)と思いながら読み進めると案の定、林達夫の精神史が、アルケオロジーという手法を介して、フーコーの仕事と重ねられる。筆者はそこで

林の時代を先取りする炯眼と問題意識に敬服しなければならない

とあるが、むしろそれは続くページに記される

林達夫の時代を先取りする炯眼を思うとき、みずからの学問上の成果をこの日本の精神風土の中で日本語で表現していくことの困難ないし無理

という表現によってより直裁に示されているのだろう。ただしそのような時代はある意味で終わっており、そのかぎりでこのような慨嘆に、それを懐かしむノスタルジックなトーンを同時に読み取ってしまう。それを終わらせたのは一方で日本の豊かさの達成であり、他方で学問の細分化という「進歩」である。僕は前者の恩恵を受けたが、後者の恩恵は受けることはできなかった。その意味では半分だけ過去の時代に属している。いや、生まれ育った場所を考えれば前者についても思わぬでもないが、しかし公平に見れば、こんなことを書いていること自体、急速に獲得された日本の経済的成長の恩恵に他ならない。その結果として、カエルの母さんよろしく腹を膨らませて苦しむことになっているわけでもあるが、まあ愚痴を書いてもしょうがない。見栄があるからしょうがないのだが、うまくその見栄と自分の能力にどこかで折り合いをつけねばならないのだろうなあ。

話を戻すと、本の寿命ということを考えれば、つまり筆者自身が日本にその重要な仕事を紹介することになるフランスの60年代の仕事がどのような意味をもっていたかというイメージが人々に共有されなくなる時代がいつかは来るということを考えれば、たしかにここで明示的にフーコーに代表されるフランスの60年代の仕事について触れ、比較しておく必要があったのかもしれないが、できればそれはせずにすませてもらいたかったという気もする。そうであれば林達夫の事実上最後の仕事についてもう少ししつこく検討してもらえたのではないかと思うからだ。が、いかにもこれは贅沢なわがままというものかもしれない。

読む前は仏文学者の片手間仕事かと思っていたが、そうではなかった。そういうことでいうとむしろ最近ポストの増大している日本文学(現代)のほうが、むしろやばい感じがする。結局明治以降というと、「西洋」との関係が重要なキーになっており、彼らの重要なリファレンスの対象であったりする欧米のテクストにたいしてほっかむりしてしまうと、林達夫のような人を扱う場合はとりわけ、えらく不自由な闘いを強いられることになる。国文の世界はますます文献学的になっていくだろうから、いつかあの世界はふたつに分かれてしまわざるをえないだろう。
まあ超現代ということになればこれはかえって洋学抜きでやれたりするのかもしれないが。

翻訳でいい、という意見もあるが、どうも実感としてそれでは駄目だという感じがする。すべてのものが訳されているわけではないし、数学や論理学をやるのでなければ、せめてなんでもいいから外国語をやっておかないと、自国語の相対化ができない。これができないといわゆる思想内容をきちんと理解することは無理ではないかと思うのだ。仕事して忙しい人にそうはいわないが、しかしまあできれば読みたい外国語のテクストがあってそれがどうしても読みたいなら、翻訳がないことを嘆く前に、全部の単語を辞書を引いて読んでみればいいと思う。もしそれがそれほど長いものでなければ。二時間辞書だけ引きつづければ相当数の単語が引けるだろう。そこで分からなければ質問するという手もあろうし。効率的ではないというかもしれないが、なに、だいたいこういうクソみたいな文章を死ぬほど読んで人生は終わるのだ。