最近

TVを「見る」ことが減っている。このあいだ見たのは今年を最後に廃止の決定した枚方菊人形展のレポートだったわけだが、それ以降たぶんなんかの番組は見ていない。といっても、べつだん主義主張があるわけではなく、子供が生まれたという外在的な原因にすぎない。だからこっちは積極的に見ていないだけで、子供番組を見るというかつけておく時間は増えていて、朝方うんこをしたSOPのお尻を拭くときとかにテレビがついているとおとなしくじっとそっちを見てくれているので、そういうときにはテレビを必ずつけることにしている。あとはその流れで二人で子供番組を見ることはあるが、夢中になってみている横で、ちらちら本や雑誌を読みながら、おもしろいね、すごいね、と相づちを求めるSOPにときどきウンウンすごいね!と相づちを打っていたりするだけだ。
だから厳密に言うと視聴時間は増えているかもしれないが、結局それ以外の時、つまりSOPの気が逸れないような番組はつけていても無駄で、というのもSOPがカマッテクレーとテレビ鑑賞の邪魔をするか、それでもほうっておくとテレビのスイッチを意味なく付けたり消したりして、テレビを壊しそうになるので、コンセントごと引っこ抜いてしまうことになる。すでにビデオは一部機能がおかしくなったし、mayakovによると公園友達のお母さんは液晶テレビを破壊されてしょげかえっていたそうだから、抜けるコンセントは抜いておかないと何があるか分からない。むろんSOPが寝れば自由時間だが、なんというかいちいちコンセントを入れるのはもう面倒くさくなっており、それに今日は世の中で何があったか確かめようと思ったときには、放送開始時間に拘束されないから、ついついネットを見てしまうことになり、そうすると、もうそれ以外の時間は残っていない。
別段テレビ時代の終わりだとか、そういうことをいうつもりはないが、年をとってきたせいか、あらためてテレビが集中することを要するメディアだということも分かってきた。昔はながらでテレビをつけてあれこれ生活をしていたりもしたわけだが、それとて子供という巨大なエネルギー消費マシーンがいなかったから可能であったわけで、こいつが一匹紛れ込むともう、そっちにさけるリソースは残っていない。何のかんのいいながら自由な時間がそれなりにあってのテレビだったわけだ。まあ習慣という要因も大きいから、いちど切れるとなかなか復活しないということもあろう。特最近のバラエティは身内意識を強調する方向に行ってるからか、あれやこれやで身内感覚が維持できないと、とたんに見る気がなくなる。面白くなさがもろに露呈するということでもあるし、もとより連続ものであれば、毎週毎週つくっているわけだから、そんなに面白いはずがない。けっきょく面白いとか、面白くないというのも、コンテツの内容ではなくて、形式というか、情報の提供の仕方ないしはそのモードに引きつけられていたわけで、それが身内意識のようなものだったのだろう。だからそれでも偶然付いていて気を引きつけられるのはドキュメンタリーとか科学番組とか、身内意識なしで見ることのできるコンテツになってしまう。いぜんはあまり魅力を感じなかったものだ。

まあこういったことはテレビと言うよりは、映像が、というべきなのだろうか。職場柄、女子だけなのだが学生に聞くといまでも意外に中高生のときにラジオの深夜放送を聞いていた子が多い。死んだメディアだとばかり思っていたから意外だったわけだが、しかしそういえばフランスにいるときはいまよりもラジオが身近にあった。テレビが死ぬほどつまらないという理由もあったけれど、結局そのつまらなさは、思い出してみれば、ある種の身内意識の共有ができないがゆえのつまらなさだったような気がする。たしかにあれはcoolなメディアではなかったようなのだ。いやインターネットがcoolだというのではなく、インターネットも同様にcoolではない。どちらかといえばコミュニティ(ヴィレッジのほうがいいですか)を形成することによって成立するメディアとして、テレビに代替しているように思う。
いまのところラジオのほうがそのてんでは距離をとった関係を許してくれるメディアであるように思う。音楽がそうであるように。

まあ新しいiPodを買わなくてもいい理由とか、そういうことなんですけどね。

そういうわけで、どちらかというとPodcastingのほうに理屈屋としての関心は向かうことになる。母国語の世界にいるからそうなのかこの国ではテレビの意識や生活にしめる割合が他の国と比較しても大きいように思うから、最初Podcastingについてはあまり感心がなかったのだけれど、しかし人間にはなにか情報なのか、空気の振動なのか、そういったものが必要なのだとすると、もういちどラジオとともにあるような生活がくるのだろうか。敷居が低いことはたしかなのだ。まあしかし時間に拘束されているという点で、やはり活字とイラスト、あるいは写真というより古いメディアを主体としたウェブ・サイトが、いまの生活がそうであるように、生活の中でつねに共存するメディアとしての地位を奪還したこの状態が、いましばらく続くのだろうか。

気分転換できて気が済んだので、突如話を打ち切って、結論へ飛んでゆくと、映像は現在のテレビのありようというか、形式を離れてゆくので、テレビはありようを変えた方がいいということだなあ。凡庸な結論。いやちょっと意味なく文章を書いてみたかったのだ。悪気はなかった。新聞とテレビによって支えられていた国民意識も変わるかもしれない、というぐらいの出来合のクリシェで許してくれ。解体するとまではいわないが、その可能性も十分ある。いずれにせよ、両者とももう主たる伴走者という地位を維持できなくなってきている。

授業の準備に戻ろう。今日は5:30に起こされて、活動開始を余儀なくされたのは6:00だったものな。疲れるよ。SOPは今のところmayakovにとってはおぱいくれマシーンであり、おれにとってはうんこひりマシーンだ。そういう結論でもある。こう書いておけば少しは内容も豊かになろうかというものか。