トルコ

EU加盟に向けての協議開始。ついにきたか。オーストリアの反対を押し切ったようだ。ただし外にはアルメニア人のデモ隊も。ドイツは国民の大多数が、イギリスでも過半数が加盟には反対という状況。住民投票をすればおそらくは否決ということになるだろう。にもかかわらずプロジェクトを推し進めるその断固たる態度に、政治というものを感じる。あるいはそれはこの文明を担ったヨーロッパの、世界史的な意識というものなのだろうか。危うさと羨望の入り交じった複雑な感情。

ところで最後に残ったのがオーストリアだというのが興味深い。いまからたとえば500年後の歴史家はあるいはこの事態をオスマントルコ対ハプスブルグ家の対立の延長として見たりするのだろうか。500年後にまだこの人類の世界史なるものが続いているとして。

500年後、あるいは1000年後にこの文明はまだ続いているだろうか。人類はどのようなものでありうるだろう。ぼくの乏しい想像力はしかしそこには届かない。

進化論が理解されない最大の理由は、おそらくは地質学的時間の長さというものを想像できないからだろう。進化論は無限に変異する生物と有限な空間、そして人間の想像力が到達できないほどの長さの時間の広がりの三つでできている。

聖書の中に出てくる時間は、世代の継起としての人間的な時間と、神の時間である永遠がある。しかし永遠とはいっても、被造物たる有限な人間にとってはけっきょくそれは現在なるものを漠然と拡大したものにすぎない(nunc stans?)。それをイメージしようとするなら。
しかし地質学的発見があたえたインパクトは、聖書に書かれた人類と世界の始まりとを、かつてなかったほどの過去に向けて拡大させてしまったことにある。つまりそれは世代の継起としての、直感的に理解可能な時間の長さを乗り越え、さらにその向こうにあったはずの(少なくともその現在の拡大にすぎないイメージとしての)永遠の、さらに彼方に向かって伸びてゆく。それはいわば永遠よりも長い時間であり、人間の理性は宗教的なものが到達できるさらにその彼岸に手を伸ばしてしまった。

科学は宗教をこうして世俗的なものにしてしまう・・・(カワイソウナカミサマ、カワイソウナニンゲン)。

この地質学的時間を「分かろう」としても、それは結局は理性が、尻込みする想像力をけしかけてどうにかこうにか理解したような気になれるだけのことで、しかしふと我に返ってしまうと、つまり僕らの手を引いてくれる科学の手を離してしまうと、とたんにそのあまりの巨大さに、そんなことはワカラナイと身をすくませてしまうしかないようなものだ。

ダーウィンの独創性は理論的には上の三つを組み合わせたところにあるように思う。有限な世界に生きる個体および世代の時間を地質学的時間につなげて考えることを強いるのだ。(しかも生物学と化学の結合は人間の内側に向けて、変異の無限をさらに細分化してしまった。)つまり進化論がわからないのはあたりまえで、それを科学の手を借りずに「分かる」ことはそもそもできないのだ。

しかしようやく日本人(神なきこの国、いやヤオヨロズの神?しかし神は幾万ありとても、すべて・・・)も進化論を拒絶しようとするところまで来たわけで、それはそれで慶賀すべきことであるようにも思う。

地質学的時間をかいま見るためには。

ミミズと土 (平凡社ライブラリー)

ミミズと土 (平凡社ライブラリー)


mayakov名(?)言集
ドラゴン桜を読み終えて。
「勉強ができないからって韓国の悪口言うぐらいなら、東大目指した方が100倍いいわね。」