帰り道

いつもとは違う道を通って帰る。途中、JRの路線に沿って暗くなった道を走る。日曜ということもあってあまり人の乗っていない少し色の濃い水色の各駅停車とすれ違う。駅を出たばかりでゆっくりと走る電車の、白々とした蛍光灯の光に照らされた車内に、まばらに人が座っている。小学生の時、はじめて大阪に出てきたとき見た同じような光景がよみがえり、おもわず立ち止まる。ただしそのとき見た電車にはもっと多くの人が乗っており、まだ悪くなっていない目は、電車の中のひとたちの、それぞれの表情や仕草をはっきりとつかまえることができた。ばらばらの姿勢や表情は、それぞれがまったく違った理由でその電車に乗り、まったく違った感情を抱いていることを伝えていた。この電車に乗っているすべてのひとに、それぞれ家族や人生や子供や親がいて、別々の人生を送っているのだということにとつぜんに気がついた。おそらく田舎にいるかぎり抽象的には理解できても、腑に落ちることはなかっただろう。田舎では他人であってもあくまで潜在的には交流可能な他人として存在していた。けれど電車に乗って過ぎ去ってゆく人たちとそうした交流が成立する可能性は事実上ゼロであって、まったく無縁なこれらの人々の疲れた表情や、物思いにふける姿の多様性は、これは具体的な人間以外の何者でもないことを告げているにもかかわらず、すれ違い遠ざかってゆく彼/女らと知り合うことはできない。いってみればそれは天啓に近いものだったと思う。隣にいたYにそのことを語ろうとしたところまでは覚えているが、そこから先の記憶はない。
直接的には一切関係のない人たち(人口)が大量に群居しているという近代的な都市のありようをそのときにはじめて知ったのだと思う。