おとつい

昨日と、京都、大阪で研究会。発表の準備は全然できていない。やべえなあ。
現代思想不良債権のようなものをどうやって処理したらいいのかをふと考えるが、やはりクーンがいうように、人が入れ替わることによってしかそれはなされないのだろう。ほっておくのがもっとも経済的かもしれない。ちょうどいい具合に政権は4年続く。舞台でのダンスはあまり意味のない時代だ。
忙しかったが昨日のA研(http://sociologbook.net/aken.html)は出てよかった。おとついの不良債権はいずれ人の目に触れ、広告もうたれる。昨日の発表は(昨日の発表に限らずだが)読んだ人を考えさせる問題を含んでいる(まだ考える余地は大いにある。気を抜くな。)が、あまり多くの人の目にはとまらない。一瞬それは問題だと思ってしまいそうになるが、あるいは問題ではないのかもしれない。そのことによって保たれる問題の「質」というようなものもある。(が、多くの人に知ってほしいという気もある。)

頭がちぎれるまで考えることが素材/対象にたいする経緯であり、裏切りにたいする落とし前である。(「翻訳traduireは裏切りtrahir」であるとかの地方では言う。代行は翻訳でもあるのではないか。誰もがふたつの世界(社会?)を行き来しているわけではない。)

劣化コピーの彼/女らにはキャッチ・コピーしか見えていない。そういう平板な鏡の「世界」に住み、そこから出ようとしない。それが対象への指示を欠いた「ワン・フレーズ」の集合でしかない点で、小泉と、小泉を支えるひとびととじつは同じ世界にすんでいるということだ。小泉は彼らの影だ。あるいは彼らが小泉の影なのかもしれない。

ともあれ知らないことが多い。社会を知るというのはなぜかはわからないが、意味のあることに思える。もちろんそれは学問というものの性質上、裏切りと搾取をともなう、裏腹な行為ではあるのだが、しかし「事実」あるいは「出来事」を知ることと、そこで何かをつかもうとして働いている個人の思考(整理ではなく)に対面することは、つねにぼくに何かをもたらす。いくつかのキャッチフレーズの劣化コピー(その順列組み合わせ)からはもたらされないなにかだ。
思考はそこからはじまる。つぎはぼくの番だ。だからまた読むことからはじめよう。それが何かをあたえるものであらんことを。