mayakovは

yeuxqui2005-02-22

典型的な神戸っ子で、祖母、母親、mayakovと続いて阪神間の阪急沿線の文化の中に育った(この場合やはり女系で数えるべきだろう)。山本通りで画廊を開いていたばあちゃん(そういえば草間弥生の小品が残ってたりする)。母親とmayakovはそれぞれ別の中高大一環の女子校を出た(mayakov は反抗して最後は別の町の美術の学校に行ったが)。特別に金持ちでもないが、もちろん貧しくはない。阪神間文化に浸っていたといってもいいかもしれない。ちなみにその出身女子校の名前のもっているイメージと、また当時父親がランチアに乗っていたせいもあって、mayakovは入った学校のスーパーカー世代の友人たちからバスケ三大富豪の栄誉を奉られてしまうことになる。

が、彼女の家はサラリーマンの家であって、もちろん富豪ではない。もちろん富豪ばかりが阪神間の阪急沿線に住んでいるわけではない。数としてはもちろんふつうの一軒家が多い。mayakovは高校生の頃からそういう家を大事に写真に撮っていた。高校生だったからそれほどお金もなくて写真の多くは現像されないままだった。このあいだいくつか現像してみたら残念なことに変質していくつかはもうだめになっていた。色あせはしたものの、残ったいくつかの写真には震災前の住宅の細部が記録されている。震災によってなくなってしまった、あのあたりの沿線沿いの雰囲気は、門扉や垣根のディテールからも想像できなくはない。

震災、と書いたが、震災があろうがなかろうが、それらの写真は失われた面影を伝えるという役割を担うことになってしまっただろう。おそらくは80年代のどこかで(あるいは90年代に入ってからだろうか)、象徴的にいえば「ぷがじゃ」が「ぴあ」に変わってゆくどこかで、その変化は決定的なかたちでおこったのではないだろうか。震災はそれにおそらくとどめを刺したのだろう。(大学生の子供を持ったいい年をしたサラリーマンがランチアを買うような町からベンツやBMが目立ってしまう南大阪のような町に?)
それだからこそ比較的被害が少なかったはずの山側(焼け野原になってしまったような地区と比べて、のことだが。それでも全壊半壊は当たり前だったようだ)でも、町並みはじょじょにしかし確実に失われていきつつある。それはぼくのような部外者にもはっきりとわかる。歩いてさえみれば、どこにでもある町並みに変わっていっているの見えるからだ。その原因ということでいうなら、たとえばそれは建坪率の変化ということひとつをとってしても明白なのだが、もちろん問題はそんな行政的なことだけではない(いやそのことは大きいしそれこそが問題とされねばならないのだが)。

おそらくはmayakovは身をもって痛みを感じているのだと思う。ぼくは故郷を捨てた人間であり(捨てた、ということは持っていたということでもあるのだが)、故郷が変わることは寂しくもあるがしかし同時にある種の距離感とともにその変化を見守ってもいる。いや幸か不幸か、あの町はもはやドラスティックには変わりようのないそういう時間を生きているということもある。ただもっと本質的なところで、ふたつの町の変化には違いがあって、それは変わりつつあるものの種類そのものが違っているのではないだろうか。