神戸の

yeuxqui2005-02-21

というか阪急の梅田から三宮につづく沿線の、もっとも神戸らしかったはずの風景はどんどんのなくなってしまっている。いやはっきりと書けばどんどんと南大阪化している。もとより南大阪と神戸は大阪をはさんで南と西にあって、阪神高速湾岸線を使えば30分でつながっている。対照的なこの二つの町の運命が逆になる可能性はゼロではなかった。小野十三郎のエッセイなどをみると、かつての南大阪はきれいな砂浜と松林をもつ保養地であり、外国人の貿易商などがその砂浜にほど近いところに別荘を構えていたりもしたという。外国からの客をしばしば浜寺の海水浴場に連れて行ったりもしたそうだ。いやそもそもかつて海軍と労働者の町であった神戸にたいして、南大阪市は後代の歴史家から自由都市と称された貿易港だったわけなのだが・・・。

阪神間、夙川や芦屋、宝塚に住んで大阪で稼ぐ。西鶴が描いた町人たちは鉄道の延長とともに大阪を離れた。たとえば須賀敦子の家のように。いやあれほど恵まれた特権的な一族を例に出さずとも、たとえば大阪のそれなりの会社に勤めるサラリーマンは、若いうちは御堂筋線の南北の終着駅の周りに建設された団地と呼ばれる公共集合住宅に住んだ。東大と京大の建築教室がデザインした、必要最小限の居住空間しかもたない「合理的」な建造物だ。
日本の経済成長と本人の手取りの増加とともに、彼らはそれぞれの所得に応じて、こうした私鉄沿線に一軒家を買い移り住むだろう。海側に海軍と労働者の町ひろがり、山側にブルジョアジーあるいは市民階層と呼ばれるはずだった階層が移り住む。こうして阪神間沿線の独特の活力と町並みが形成されていったのだろう。その間、大阪の南は別の方向を辿ることになるのは、やはりそれぞれの行政の力量の差だったのだろうか。

こんど廃校になる勤務校は、きわめて早い段階から女性の職業教育(花嫁学校ではなく)を旨とした、いや率直に言えば恵まれたエリート層の女性が学ぶ学校であり、そして現在の場所に移転する前にはその真向かいに有名な私立の女子大学があって、そこで教えていた小野十三郎に自分の書いた詩を見てもらっていたのが富岡多恵子さんであることは彼女は何度もエッセイに書いている。たしか僕らが大学に入るころまでは、大阪の南部にある、その私立の女子大はたとえばmayakovやmayakovのお母さんが通っていた岡本や宝塚の私立の女子一貫校と同じようなイメージだったような気がするのだが・・・。残った数少ない路面電車である阪堺線に乗って、そのあたりを通るとかつての華やかな雰囲気が、いまでも残像のように漂っている。

戦前から戦後のどこまでだろう、70年代だろうか。80年代だろうか。まだ『ぷがじゃ』があったころまでは、文化的にも関西はやはり大阪が中心だったのではないだろうか。60年代までの繊維産業。この産業がたとえば田中一光を育てることになる。彼の自伝を読むと、繊維産業は輸出産業であって、海外の顧客を相手にするために常に目は海外に向けなければならず、そしてその外に向けられた視線が大阪のモダニズムを生み出す母体となったことがよくわかる。
新書版もあるが、あえて自らデザインしたこのハードカバーをあげておこう。田中一光自伝 われらデザインの時代
このモダニズムの運動の中心が大阪だったことは、三都と称される神戸大阪京都のいわゆるモダニズムの建築のスケールをみるとよくわかる。文化的にいっても、GUTAI(具体)は現在でもそのまま通じる(でも国内だと赤瀬川源平になっちゃうんだな)。芸術運動としてそのまま通用する単語としてはOTAKU以前は具体ぐらいしかなかったのではないだろうか。(もの派とかはどの程度知られていたのだろう。怪しい感じがするのだが。)

その繊維産業もマスを対象とした部分はいずれ放棄せねばならなかったにせよ、日本経済史の知人の言を信じるならば、アメリカの対共産主義政策に従うかたちで、極東の産業振興のために極めて乱暴かつ急速に政策的にそれは放棄させられ、おりしも進められた太平洋ベルト地帯の発展とともにいわゆる重化学工業を中心としたコンビナートに産業の中心は移り変わってゆく。引き替えに政府から多額の補助をせしめたこうした産業は、跡地を売り払い、その場所のうちいくつかのものは、6−70年代にかけてつぎつぎと団地に変わってゆくだろう。たとえば京都の高野の団地もそうしてできたもののひとつだという。
商人はその時々に売れる物を売りながら、いずれ金貸しに変わるものだとはいえ、金融ではなくむしろ地主に落ち着いてしまったことが、その発展のダイナミズムを削いだようにも見える。あるいは知識集約型産業への対応が遅れたのは、知性と政治を疎んじた大阪の限界だったのか。鎖国の間に商人たちが遠洋航海の技術を失っていったように、福祉国家が成立する中で大阪の商人はそのリアリズムを失っていったのだろうか。目先の利いた者は田中一光のように、いずれにせよ東京に出てゆったのであろうが。