めも

http://d.hatena.ne.jp/nopiko/20050206
par KISHI-don
きしどんの研究会に顔を出すようになって、叔父や祖父がどういうふうに働いていたのか、ときどきに耳にしていた飯場という場所がどういうところだったのか、なんとなくわかるようになった。おれはおじいちゃん子だったが、じいちゃんは田舎にはいなかった。季節工だったり、山にいたり、たぶん飯場にもいたりしたのだろう。体力に恵まれ「ディーゼル機関車のように(叔父はジーゼルと発音したが)」働き続けることができたらしい。やさしいひとでじっさい現場で声を荒げることのないひとだったようだ。戦時中、予備役に編入され、朝鮮半島にいたとき、部下に一度も手を上げなかったことを祖母はよく自慢していた。もともとは田舎でも指折りの金持ちの家に生まれ、祖母は少女のころ祖父の家の前を通るたびにこんなお屋敷に住んでいるのはどういう人だろうと思ったそうだ。けれどその両親の、男親の遊郭遊び、そして女親の着物道楽という遊蕩は、そのちょっとした財産を食いつぶし(このあたりは西鶴ものそのまま)、祖父は上の学校に進むことなく、若くから働き始めることになる。そういう祖母も、船の転覆で漁師をしていた父親と男兄弟を一夜にして失い、やはり尋常小学校から上に進むことはできなかった。詳しくは話してくれなかったが、最後まで終了することはできなかったのかもしれない。尋常小学校のクラスで暗算が一番早かったことが自慢だった。戦後の物資の不足のなかで長女を失い、昭和天皇を憎み、決して許そうとはしなかった(左翼は祖母のようなひとたちに支えられていたはずなのだ)。
ふたりとも港で働いていて出会い結婚したらしい。母が子供のころにはもう出稼ぎをしていたようだ。いちど戻ってきたときに土産にリスを持ってきてくれ、それがとてもうれしかったという話を母とその妹のおばから聞いたことがあるから、そのころはもっぱら山で働いていたのだろう。木材を吊って下ろすためのワイヤーの事故だというから、外れたワイヤーで頭部を強く打ったのだろうか、ぼくが生まれたころには耳が聞こえなくなっていた。中上健次の『奇跡』に主人公のタイチが同じ郷里のものらと建設現場で一緒に働く場面があるが、じいちゃんも、いろいろあって田舎にいられなくなったその長男の叔父と一緒の現場で働くこともあったらしい。事故のせいもあったのだろう(少し言葉を濁すような事情もあったようだだが)、あるときからは二人は別々で働くようになった。日本刀を振り回してどうとか、という話を耳にしたこともあるけれど、詳しいことは教えてもらってない。それからは叔父はいわゆる建設現場で働き、あるときは大阪、あるときは名古屋と転々とする。南大阪市の現場にいたこともあるようだ。祖父はおそらくは季節工のような仕事が多かったんじゃないだろうか。彼らには仕事のある時期とない時期とがあって、だから祖父や叔父は高度経済成長以降の賃労働とともにあって、そしてそのことが自明であり前提であるような世界、つまり「月給取り」たちの世界とは異なった世界に生きていた。そうした彼らがある程度の社会保障は享受することができたのは、時代の幸運と娘たちのおかげだろう。
二人がいないから祖母と母と叔母は女所帯で、まあ貧乏だったようだ。港から出る魚のアラを積んだリアカーを山のほうにある養豚場に持っていくのが小学生だった姉妹にはなんとも恥ずかしい仕事で、臭いし重いし、途中で友達に会うのは子供ながらに嫌だったという。しかし祖母がよく言っていたように「三日やったらやめられない」漁師は誰もがなれる権利をもっているわけではなく、山もそれほど多くの雇用を吸収できるわけでもない。この田舎の男たちは、少なからぬものが、祖父や叔父のように外に出て働いた(それは女たちにおいても例外ではなかったが、それはまた別の話だ)。そうした仕事の多くは1ヶ月単位の雇用で、田舎に残された女と子供はそうした期間を食いつなぎながら待つことになる。
こんな生活は母が結婚しぼくが生まれてからも続いていた。ぼくも補助輪つきの自転車に乗って駅に行って祖父が帰ってこないか待っていたりした。小学校も半ばをすぎるころには、成長の恵みが田舎におよんだおかげで、比較的つらくない職場を田舎で得ることのできた祖父は毎晩家に帰り、お茶で割った焼酎で晩酌を楽しめるようになる。別の町に住んでいた叔父は手に入れた車のおかげで、近くの現場であれば週末ごとに家に帰ることもできるようになった。高校生になったぼくはこの叔父の住む町に下宿し学校に通った。週末はしばしばその叔父の傾いた家で一緒に夕飯を食べ、ゲロが出るまで焼酎を飲んだ。飲んだのか飲まされたのか。大学に入ってからはしばらく酒からは遠ざかった。再び飲むようになったのは30代になってからだ。

いっぽうぼくの家は「月給取り」の家であり、友人たちと比較しても、母の実家と比べても、ぼくは自分が恵まれているという自覚があった。自覚があったというより、自分のことを金持ちのボンボンだと思っていた(大学に入ったらぜんぜんそうじゃないことを知って、えらく驚いたが)。ちなみもうひとつ驚いたことは、テレビの世界のフィクションだと思っていた食器棚に入った「おやつ」というものが本当に存在していたということ。田舎では主婦というものをこの目で見たことはなかった。都会から転向してきた女の子の家に行ったらお母さんが出てきてずっといた、と少し興奮したように女の子が騒いでいたのを思い出す。
ただ二つの世界という言い方は正しくはなくて、行き来の可能な、つまりあちらからこちらへも、こちらからあちらへも、ちょっとしたことで移動してしまう世界であるという実感はあるし、だからこそぼくらの階級は手に職ということに高い価値を置くのだろうと思う。

番組を見ながらそんなことを思い出したりした。

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http://hpt.cocolog-nifty.com/blog/ (Sunday, February 06, 2005)
べつに上と関係があるわけではない。知らんかったのでメモメモ。
個人的にはPocockのほうが好きなのだが、それはMachiavellian momentの第一部の最後、Giannotti(つづりこれでよかったっけ?)に触れたなんとも泣かせる部分に琴線を鷲掴みされたから(こういうことを書くと嫌がる人もいるだろうが、あの章を読んでアルチュセールの『資本論を読む』を思い出した。)。Skinnerは勉強になるけど、そういう逸脱は少ないのが、ちょっと読書の楽しみという点では一歩譲る。

が、考えてみればSkinnerについてはVisions of PoliticsもVol.2しか読んでいないわけで、ホッブスへの彼の傾倒はliberalisme before liberalismeですこしだけかいま見たものの、その実像はよく知らない。そこから読んでみるか、とも思うがいまは別のことに足止めされていてそういうわけにもゆかないのが歯がゆい。やはり政治思想についてはいずれにせよ楽しみの部分が多く、仕事にはなりきらないのかもしれない。だからといってじゃあ仕事って何だ、と言われると困ってしまうのだが。