メディアとの関係のはらむ問題

について少しづつ考えを進める(id:yeuxqui:20040927)。臨床心理にたずさわるものは、本来は裏家業なのだから、というあるひとの述懐がとりあえずの回答。それは劇場空間には本質的にそぐわない。ただすべてを胸にしまいこんで死んでしまうには、知ってしまったあまりにも多くのことがある。それを職業上の秘密とするか、プライバシーとするか、あるいは人間についてのひとつの真理とするかは、まだいまは問わないでおこう。
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語ることの誘惑は強く、しかしそれは彼・彼女らの「仕事」の基盤を掘り崩す。

多かれ少なかれ研究者にもあるこの矛盾はしかし、たしかに彼・彼女らのほうが大きい。

メディアへの露出は訪れる「患者」の態度を微妙にしかし決定的に変えてしまうという。

(いや大学の先生という肩書きすら、じゅうぶんに関係を変えてしまうほどに強いものであるようだ。たしかにぼくもしばしば思いもかけぬときにそれを感じる。)

遠隔力というもの。メスメリズム? (それに耐えねばならないのか?)

(メディアとの親近性。意外に早く落ちて行った? おそらく大衆社会をなめていたのだろう)
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そして精神分析医と比較してもその矛盾はさらに大きいのかもしれない。

制度化が不十分であるということは、この社会においてはなんらかのかたちでその存在意義を広報しなければならないことを意味する。社会的存在としての承認を得ようとすることは、誰かが劇場の舞台にあがるということであるが、そのことによって彼・彼女はもはや「臨床」家であることを半ば断念しなければならない。

(制度化は一つの解決となるだろうか)
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たとえば「有名人」に近づいてゆく人々の見せる特殊な媚態。確かにそういうものが存在することは知っている。半歩離れたところから少なからぬ例を見てきた。

自分自身もそうだったはずだ。(現在はそうではないのか?)

けれどやはり、秘密?真実?それを抱えたまま知り得たなにかを葬り去ることはなるほど困難なことではあるのだろう。また少しだけ別の問題。Fameを求めるのはなぜか。自分がそうであったはずのものを犠牲にしてまで。

ひとたび語りだした彼・彼女はもはやとめどなく語りつづける。だがすべてを語ることはできない。それは他人の秘密であり、他人の真理であり・・・

(語ることがむしろ自分自身への治療であるような医者も少なからず存在する。ただしそのときになぜ「メディアに」でなくてはならないのか。いやこの日記もまた?)

そして語りつづけているうちに、いつしか、彼・彼女は現場から離れ、ついにはほんらい語るべきであったはずものを失っていることに気がつく。
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官僚制的専門分化VS全人的教養という対立。後者つまり知識人。そうした者はもはや不可能であるとフーコーはいったはずだ。ローカルな知識人。だがローカルな知識人は官僚制的専門家であろうか。現場を知るものはすべからく官僚制的専門家たらざるべからざるか。

心理療法家の蹉跌はそれは必ずしも解答足りえないことを物語ってはいないか。

文字通りの「ローカル」な知識人は存在し得ないのだろうか。それは知識人ではないのだろうか。

メディアのなかにいない知識人はたしかに定義矛盾だっただろう。いや。

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(やはりここでもルソーは先駆的だった、のだろうか。)

すくなくとも「臨床」を称しつつ、メディアのなかの人たらんとすることは少なからぬ困難を惹起する。

ソクラテスプラトン?)
clinique, critique?

ローカルであることは困難であるとともに、ひとつの対応ではあるか?
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日常はある。
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来年はルソーを読もう。
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80年代といえば現代思想フェミニズムということで、メディアと女である。ここが躓きの石か>きしどん