グラスゴーの

ひかるさーんとしょこさーん、ありがとおーー。とどいたよー。
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Rosanvallonひとまず終了。残った分は来週解説しておわり。3回生への卒論の発表もあるし。英語など読むのは、いったい何年ぶりであったろう、1950生まれの社会人学生のおふたりも、外国語−外国語は疲れたでしょう、中国からの留学生のLさんも、「いっぱいいっぱい」だったようですが、後期から参加のNさんも、お疲れでした。おれも延々読んで訳して疲れたよ。

いままで英語読ませるのは無理だと思い込んでましたが、少なくともそれは間違っておりました。

やっぱりあいつらの言うことは何一つ聞いてはいけなかったのだ。

どうしても英語解説になってしまうという問題はあるにせよ、しかし英語解説こそが重要ということもある。nationとstateの訳し分けの問題、philosophyと哲学の違い。道徳とmoralとの違い。moralがどうしてcivicという形容詞と結びついて違和感がないのか、等々。
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道徳から政治ないしは社会という契機を抜いてしまうと、大きな環境問題か小さな一日一善になってしまう、というようなことに、中国人留学生のLさんに赤穂浪士の話(というかその問題についての荻生徂徠の対応の話というべきか)をしながらたどり着く。ほんらい人間集団のルールにかかわる問題としての道徳を学校ないしは教室という空間に押し込め、政治的ないしは社会の問題を排除していったことが、戦後の(あるいは大正期以後の?)奇妙な道徳観念をねつ造することになったのだろうか。

いや道徳哲学、という言葉の日本でのイメージとmoral philosophyという言葉の指さす領域の違いについて説明しているうちにそうなったのだが。

社会的であること、それが少なくとも政治的であるような社会というものの概念上の広がりを奪い、「道徳」の観念を教室の中に閉じ込めることで、意図せずして、奇妙な二者関係の哲学もどきとしての道徳を生み出したのだろうか、無味無臭で当たり障りのない心がけの問題に道徳を閉じ込めることになったのだろうか。道徳はやはり多かれ少なかれ政治的であったはずなのに、その語彙の広がりはやはり大正期以降(?)の教室の中で失われてしまったのではないかというようなことを話す。なぜかひらがなで書くことが好まれる「こころ」への関心は、あんがいそういう制度的な原因で生み出されたのではないかなどという疑念がむくむく。

そう、もろ制度であるところのカリキュラムに、もうすこし広く考えて「学校」というものにそれはとらわれている、というベタな話なのかもしれない。

たしかにイデオロギーってそういうものかもしれない。

さて来年はどうするかね。

いずれにせよゼミなるものをやるのもあと二年。ちょうど良い潮時かもしれん。
身軽になるのはよいことだ。
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本屋でLe retour du bon painの翻訳を見かけたのでぱらぱら。ありゃ、結構削ってますな。うーん、長く売るつもりなら残しておいたほうがいいところのような。化合物の話とかかえって読者の興味をひくと思うんだけど、まあ。たぶんどっかで常識なくなってるだろうし、おれ。
こんなに調べて馬鹿じゃないか(尊敬の念をこめて)、という感じはちょっと薄れているなあ。仕方ないか。一般向けに設定したのだろうけど、だったら写真はカラーのままにしたらよかったのに。しょうがないのかなあ。Eric KayserとDominique Saibronがパンを作る行程写真も削られていたような(立ち読みなので見落としていたらすまん)。あれちょっと面白いのに。
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でも考えてみればカプランってこれが最初の翻訳だよね。解説もほとんどパン研究家という扱いだし。案外本望かもしれない。

何が翻訳されて、何が翻訳されないかって面白いなあ。