リー・リンチン

Oggiの美香でやってくる人の多い、今日この頃。先日の発表ではしゃべり出すと止まらない+最近のややことを荒立てたい願望の強く出た発表&討議になった。面白かったけど。
風邪が治らないのに、忙しさはじょじょに加速度がついており、しかしどれもやらないわけにはゆかないものなので、なんか不思議な感じに忙しい。つまり研究者って暇なはずだよね。おれまだ37なんすけど。ええと世界中でこんなもんなのかな。自業自得の自己責任?なんか走り続けているうちにこけそうな気が・・・
まあしかし学内問題は良い方向に、進むかのように見えているのはまあ、多少のやった甲斐はあったというものか。チェックはしとかんとあかんだろうが。いちおう議論のうえで決めたということになれば、まあ多少思い通りにならなくてもしょうがないだろう。大事の前の小事だし。

今日はロザンヴァロンの日なのだが、ロザンヴァロンのLa nouvelle question socialeは、征南のムナゲマンが版権を取得し、ほぼ訳し終わっていることが判明。さっさと解説書いて、はよだせや。というわけなので調査はいらないよ。

この間の発表でもそうだったけど、衝動と行動が以前より直結している。机けり飛ばしたり、この間も会議で、そんな報告書の出版は紙と予算の無駄だから許さんとかやってしまって場を凍り付かせてしまった。そのときは正論だと思っているので100%の確信で発言してしまうのだが、よくよく考えると、じゃあ、どうやって予算を消化するんだというリアルな問題が発生する。というか結果としてしてしまっており、あれどうするんだろう。

しかしその問題も教育学の奴が引き起こした問題なのだが、ええとああいう事件(http://www.osk.3web.ne.jp/~irabuti/)があるからいうのではないが、ちょっとあまりに品質管理ができていないというのは、ごくごく個人的な体験からくる偏見か? 教育行政とか教育社会、教育史のみなさんは知っているかぎりでまともな人が多いので、ちょっとなんとかしてください。どっかで、自浄作用を果たしてもらわないと、いい加減に学部の争いになるんじゃないですか。それはちょっと問題が大きくなりすぎるような気がするので、なんちゅうか。まあ外からいわないと駄目か? メディアの皆さんにおかれましても、ちょっとサイエンス・ウォーズどころの話ではないように見えるんですがね。東大のあれも、ちょっとあやしいが、玉川のCOE何してるか、見てみるか。

ほんというと、教育が公教育であるかぎりで、政治学(+法学+経済etc..)がそろそろ役割交代に名乗りを上げていいはずなんだよね。堀尾輝久なんて、立場的にはいかがなもんか(あの私事化原則は無理がありすぎる)、だけど、この間読んでみてElie Halevy(Le radicalisme philosophique)なんか読んでやってたりするのに気がついて、ちょっとヘー、なのだが、まあほんらいThe 教育学ってそうあるべきものでしょうに。学会はそうかもしれないけれど、政策へとつながる部分がちょっとオカルト多すぎ。知の欺瞞どころではないですよ。要はThe教育学が何かを定義しきれてないので、(学会的にはしているのか?)、間違った哲学、つまり一種の人生道徳として理解された哲学が空白を埋めようとしており、ほんらい教育学とは何の関係もないか、せいぜい周辺的な存在でしかない二者関係の哲学(ブーバー、レヴィナス、つまりは西田もどき)が、The教育を考えようとしてとんでもないことになっているように、部外者には見える。それも教育だが、公教育におけるThe教育学を担うには力不足だし、ほんらいそういうことを望んではいないだろう?
しかし近代の政治制度についてはデモクラシーを採用する国家の教育理念は、どう考えても市民の育成以外にはありえず、そのかぎりでまずはデモクラシーとはどういうものか、という理解が、その柱にならないとまずいのではないか。つまり市民道徳ないしは市民の倫理は、そのほんらいの言葉にさかのぼって考えなくても、政治的な、と称される、人間の集団的なありようについての理解以外のいったいなんなんだ、というのが年来の疑問。そのへんを正面から議論として取り上げないから、素人のくせに臨床と称して学生と戯れてみたり(ほんとうの臨床家にはイデオロギー的には異なっていても、やってることに尊敬すべき人も多いことは知っています)、得手勝手なにわか国家論で、新しい教科書を作ってみたり、男女非同権論のおっさんも教育学ないし哲学がらみちゃうんか。いや、社会に対する弊害はちょっとあまりに大きくなりすぎてやいませんか?

戦後の国公立の大学教育の問題は、師範学校旧制高校をどうするかであって、つまりパンキョー(おれもそうだ)・そして語学・教育大・地方国立の教員をどうするか、だ(社会問題としての大学の問題はもっぱら私学の社会科学系の問題)。帝大のなかではさらに進駐軍にいわれて作った教育学部も問題になるが、第2文学部として自己を規定することで問題をやり過ごした。これがけっこうあとを引いてる。南原繁は、教育哲学のようなへんちくりんなものができてしまったのだから、もうすこしきちんと介入すべきだったと思う。フィヒテのほうがなんぼかましだったよ。和語にすれば新しい概念だと思っているのは馬鹿の証拠で、問題を隠蔽しているだけに過ぎないのは江戸時代からそうだよ。
今回の改革でも、その前の大綱化でも、要は師範と旧制をどうするかで、問題の制度的な根っこはここにある。けっきょく第2文学部じゃない自己規定をやってもらわないと、数としてはやたらと多い、おれも含めたこれらの教員の存在意義は結局宙に浮くことになる。汝と我とか言ってる場合ではない。

いや、勝手にやるけどさ。

まったくの思いつきでいうと、アメリカでの知の欺瞞って、こういう制度的な問題は反映してないのだろうか。日本の語学教員はよくもわるくも、文学鑑賞か、くそ実証なので、盛り上がりに欠けたというふうに見える。口汚くいうと、ドゥルーズとかクリステヴァとか読みたくても読めない。駄目だという自己判断もできない。現代思想が偉いと人にいわれて右往左往し、自分を不安にさせた現代思想が駄目だと別の権威に言われてホッとした、ということにしか見えない。(ああでもポスコロ、カルスタってまあたしかに語学、教養部問題かもしれんが。)
それよりは、愚者の哲学ということでいうと、疑似心理学とか、まあもっとはっきり宗教がらみのパラ・サイエンスとか、そういう奴のほうが現状としては多いし、実際の影響力もアメリカと比べても段違いにある。しかもそれは教員養成の制度とどっかで絡まってはいないかというのが懸念。

トランス・パーソナルとか神智学とか、はっきりやばいだろう。それほどでもなくても、こういうのを水で薄めたようなのが、あっちこっちで増殖していないか? 個人的な環境の問題か?

話がどんどんずれたので、繰り返すと、ほんらい教科としての道徳とは社会科のことだ。だから道徳をそれで組み替えてゆけばいい、というのがおれ様的結論だ。

あっまたプチ切れしてしまった。けど、ちょっとスッキリした。はー。さっ仕事しよ。

下のリンクから松井証券のインタビューにたどり着く。http://www.financialjapan.co.jp/biz/biz_pickup/ことこの内容に関するかぎり、まったくの正論。国家ではなく政府というほうが正確なような気もするが、まあ現状においては国家でもべつにいいだろう。
あと関係ないけど、それに、人は切れない、切ったことはない、人を切るってことは簡単じゃない、というのはまったくそうだろう。私が切ったのではなく、私が切られたのだ、というのはまあ、海千山千なんだろうから、切らせたんじゃないかという気もするが(そのほうが楽だし)、ただ独法化の過程で一番ウットオシカッタのは、理系の馬鹿ども(特定世代だが)のなかにこれで人が簡単に切れると思い込んだ奴がいた、ということだった。人の生き死にかかわる問題なのだから、切りたかったらてめえがやってみろ。そんなことまで、制度が代わりにやってくれるわけがない。実行するのは最後は人だ。利害関係も崇高な理念もないのに、そんな仕事をするはずがない。
分限免職とかをチラつかせたのは多くが教員が教員にたいしてだった。そういうやつに限って、何の責任も取ろうとはしない。残念だったのは、現状では分限免職なんて不可能なのだから、そんなことを言っても鼻で笑ってやればいいと言ったのに(というかそんなことをチラつかせた瞬間にこっちの勝ちだ)、執行部の連中がビビってしまったことだ。要するに管理職として勉強不足だったし、覚悟もなかったということ、というとあまりにマッチョか。要はできないのなら、立候補するな。責任とるの嫌なんだったら、選挙の前に本気で断れ。
あっ、また思い出しプチ切れ。

国家とか国民とか憲法とか国制とか、ということなら、とりあえずケンブリッジの例の近代政治思想史の教科書をよむが吉(仏訳あり。日本のどっかで訳してないのか?)。法学の門外漢には、歴史的におっかけるほうが分かりよい。ポコックの本(Ancienne constitution)もいいのだが、ドーバー海峡をわたったあとに、大西洋を渡ってアメリカに行ってしまい、フランス革命がなかったことになって商売柄それはちょっと困る。
しかしドーバーの東というか南か?のほうでも、プライドを捨てて翻訳しているわけで(普通研究者は英語ぐらい読めるわけだから、教育目的ということだ)、このあたりは大西洋の両岸ではもはや常識といいうことなのだから、さっさとこっちでも常識にしてしまったほうがいいのではないか。(たとえば勉強家のバリバールの最近の仕事は明らかにそういう流れを背景にしているよ。ボダン論なんかフランクリンにかなり、というか大部分依拠しているわけだし。)
おれ経済学部だから、政治学の人。