NBP

(Naissance de la biopolitique)は、使ってるテクスト(SchultzとかBecker)がいっしょだからどうしても小ネタは同じになってしまうのだが、すこし違ってる気がしてきた。少しづつ書いていくことにするか(ところで、NBPのなかでフーコーが(価格)弾力性とか説明しててなんか笑ってしまった)。

まずはじまりは高坂正顕から(このひとの思考の方向性は柄谷行人と微妙に触れ合うところがある。ちょっと最近のカント論はフォローしてないので、よく検討せんといかんのだが。だれかやってくれ)。中教審の答申として出された「期待される人間像」は事実上彼の作品である。

「期待される人間像」にはお父さんお母さんを大切にしようてなことが書いてあるのだが、高坂自身が自分で解説を書いた長いバージョンがある。長いバージョンではハイデガーの技術論が重要な要素になっている(つまり60年代の日本の後期中等教育の方針はハイデガーの技術論に基づいていた、ということ。奇妙な国)。

例の論文の「問うことが思惟の経験である」というハイデガー自身の結びの言葉が引用されたり、ヘルダーリンの「されど危険の高まるところ、そこにまた救いも増しゆく」などという章句が出てきたり(おそらくはこの路線でやるしかない、というのが高坂の立場)なんとも格調だけは高い。まだそういう時代ではあったのだ。

いっぽうで高坂は例の財団の金でアメリカに行ったりもしているので、そのなかで大衆化というような問題にも取り組まないといけないとは思っている(とうぜんオルテガは参照項)。そのハイデガー的な(ある種の)疎外論はいわゆる大衆社会論と結びついた問題として提出される(「ある種の」疎外論というのは、たんじゅんな人間性回復、という結論にはなっていない、ということ)。

その点で同時代人であるマルクーゼとの距離を測る必要が出てきて、けっこう丁寧なマルクーゼ論を書く背景になっている。(マルクーゼについては最近ではWolinのHiddegger's childrenというのがわりと気が利いている。)

つまり城塚とか(良知、生松とかも入れていいだろう)当時の左翼とほぼ同じボキャブラリー(初期マルクス実存主義)で話をしているということに注意(ただし高坂の特徴は、それ(実存主義)プラス、カント(引くマルクス、つまりヘーゲル)。高坂は当時流行の第三批判からヘーゲルへ、という流れをたどらなかった(田辺ではなく天野貞祐))。

長崎浩の回想を読むと、だいたい読書傾向はこういうパターンだ(プラス、マルクスだが、どうも初期マルクスサルトルキルケゴールの線が強い)。

ついでに、注意深く読むとわかるはずだが、広松の初期マルクス論では高坂のこういう立場も検討の対象になっている。初期マルクス批判だから当然なんだが。ただうまく扱えているかどうかは微妙。ちなみに広松の初期マルクス批判というのは疎外論にたいしてマッハ的な構図(因果論批判)をまんま適用するという形になっている(んだが、もうそれはすでに業界では常識なんか?こういう観点で割り切ると一連の論文は拍子抜けになるほどクリアーなんだが、そんなことは常識で、わざわざ指摘せんでもいいのか? 大森荘蔵の因果性批判と比較すると論文にはなるか? いずれにしてももう済んだ話か?) ともかくそういうわけで、そういうタイプの批判がハイデガー的技術論的疎外論にどういうふうに届くのか、というのが問題になってくる。このタイプの疎外論はじつはフーコーのbio-politique論なども、そう読もうとすればそう読める、というものなので扱いが厄介。

ところで中教審の答申では「期待される人間像」というのは付録扱いになっていて、本筋のほうは別にあって、「後期中等教育の整備拡充について」というのがそれだ。これはいわゆる団塊の世代がこのころ高校進学を迎えるころになるので、それへの対応というのがひとつの(外在的な)要因。

しかしもう一方では資本主義の高度化に対応するという内在的要因もある。ここでつまり人的資本論Human Capitalが出てくる。

ただし話はなかなか厄介で、もともとこの人的資本論から教育政策を見直すというのは「所得倍増計画」のなかに出てくるのが最初。つまり経済官庁(経企庁、通産省)的プロジェクトの一環であり、その意味で文部省にとっては(いまと同じといえば同じなんだが)、自分の庭を土足で踏み荒らされている、ということになる。こういうエコノミスト的教育政策にたいして、同じ道具で迎え撃った、というのがこの「後期中等教育の整備拡充について」という答申。

その辺はもうすこし細かく検討しないといけないのだが、おなじ枠組みで考えているから、基本的には路線における明確な対立はない。

ただし、エコノミスト的教育政策にたいしてオリジナルなもの、旧来の(ある種の)文部省的立場を擁護するべきもの、いわゆる退却戦のなかの抵抗線としてあるのが、この「期待される人間像」という文章だった、というふうにまとめることができる。

大雑把に概容を書くと。

ほんで、そこで問題になってくるのは、その中身、ということになる。
端的に言うと、疎外論と人的資本論との理論的関係だ。対立なのか、相補なのか、疎外論ハイデガー風のそれといわゆる初期マルクス風のものを区別するべきか、どうか。
そしてこの問題が、
Man -- Machine
Man -- Animal
という問題のひとつの大きな柱を形作ることになっている。
(つづく)

知人の家族の訃報がはいる。むうう。
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アラファトも死んでしまったらしい。

この葬式外交はしくじるととんでもないことになる。

イスラエルも(ひょっとしてこのことをみすえて?)ちょっと引いたわけだし、多少マシになるのだろうか。
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図書館に出かけて本を借りたのだが、古代思想が出ていてbio-politiqueの話だった。ぱらぱら見たが、イマイチでした。あんましセクシーな感じがないのが良くないっす。なのでエチゼンは年末にがんばってくること。あとお世辞でもバリバールがほめてくれたんで、あっしの論文も見てくれると嬉しいでゲス。(あの論文だけ読んで、Lorenz von Steinはなんか日本と関係あんのか?っていきなり聞いてきたのはびっくりしたな。あいつが憲法起草者の助言者だったって言ったら、へーそうかとヤマ勘があたったので、わりと満足そうだった。)

そのあとバリバールとちょっと話をしたら、途中で居眠りされた。