教育-優生学は思想としては同じものだと考えたほうがいい。

Nature via nurture には、「身も蓋もない」ところがあるというのは、まあ社会的物質的な平等(機会の平等?)が「ある程度」達成できれば、そこで生まれる差は、生得的なものを基盤にした差、つまり能力の差だろうと、まあ、それは一定の枠組みを仮定するととうぜん「正しい」のだろう。ただそれが現実に意味のある言明かどうかよくわからない。けれどまあその「一定の枠組み」たるや、それは、たとえば多くの社会改革が、目指しながらはっきりと言わない「前提」であって、そこが割合ハッキリしてしまう(いぜんからそうだったと言えばそうなんだが)という利点、問題をあからさまに出すというメリットがあるようにも思う。

いやようするにそこには人間を取り替えたい、という欲望はないかい。(あってもいいんだよ。)

以前調べた日本の社会政策思想の、もっとも良質な部分(高野岩三郎らに代表される)にしても、最終的には労働者の「自覚」を「教育」によって促す、という図式を乗り越えることができなかった(乗り越えることができるのだろうか、乗り越える必要があるのだろうか)。教育というのは近代のブルジョア社会と言っていいのか、啓蒙の社会と言っていいのか、かなり基本的なところに根ざしたイデオロギーで、フーコーが「人間」という観念(というか人間学)にいらつく理由はその辺にあるように思う。
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たとえば「ある種の」教育による社会改革というのは、ぼくの感じでは優生学と、ものの見方としては、そんなに変わらない。つまり日本で言うと中教審が発想するような教育というものの基盤は、ようするに社会改良のためには、個体、つまり「人間」を取り替えてしまえばいい、というふうにみえるからだ。人間を取り替えてしまう、というのは、だいたいこれはどんな問題でも解決できるという点で、まあ、実際には意味のないものだ。
意味はないがやってみることは可能に見えるというのがまずいところだだが。ただ教育でこれをやろうとするとすごいコストがかかるので、幸いやり通すことができずに済んでいる。が、やれないから、ついしゃかりきになってやろうとしてしまう。これは国家理性的に考えると筋が悪い。人口を対象とする科学の発想とはどうも違うんじゃないか、というのがぼくの印象だ。
優生学はもう少し安上がりにできそうだが、コスト計算をしてみても割に合うかどうかは怪しいところだ。これは根拠のない直感だけれど、まあ淘汰のメカニズムはわりあい信用してもいいのではないか、という気がするので、おそらく(もちろん生物としての)人間の(かつ人口としての)現状はそれなりに最適化されている状態分布なんだろうと思うからだ。(ただ「文明」はコスト無視するからな。どうなんだろう。とはいえ、意図的にコスト最小を追求しすぎると、これまたユートピア・トラップに引っかかる。)
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ただ教育は基本的には現在世代に「も」、そして教育という政策の対象にも、その効果が行き渡ったが、旧来の優生学はその対象はまずもって次の世代にしか効果がないという点で、政策上の限界があった。つまりそれをやっても誰が得をするのかをハッキリさせることができないという点だ。あんたらにはええことはないけど、これは他の人にはええことやから税金払いなはれ。いや税金払いなはれだけではなく、なんか諦めなはれ、ということを言わないといけないことになる。当たり前だが、デモクラシーの成立の基盤である平等というか、人間は互いに取り替え可能であるという原則に背反するからだ。
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人間が取り替え可能である、誰も特別ではない、というのがデモクラシーの基本。その辺間違えてる人、多いですよ。そのへん、あんまり、かけがえがないこの私とか、道学者めいたことを強調しすぎると、おかしなことになります。個体の生存というのは、なかば生物学的な問題ですから、文脈を考えずに強調しすぎるのはいかがなものか。
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人間は取り替え可能だから、あえてあなたが死ぬ理由はありません、もう誰かが死にましたとか。あの人を殺したいんだったら、人間は取り替え可能なので、代わりにあなたが死んでくださいとか。だめかな。
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ポピュレーション・シンキングでいうとあなたはもうすでに何パーセントか死んでいます。

これもだめか。
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まあ優生学はポピュレーションで考える「べきだ」というのは、現在も「基本的には」変わっていないのだろうと思う、が。

教育-優生学というのはたしかに医療に似ているが、医療、というか臨床にも、予防と治療があるように、教育-優生学にも同じようなふたつの側面がある。かつては予防-治療のセットはそれぞれ人口-個体というセットにそれぞれ対応していた。

だが遺伝子を巡る知見の「進歩」は、現役世代の、かつその対象となる「個体」に効果を及ぼしそうな気配がある。これは「おそらく」だけれど「予防-人口」と「治療-個体」という組み合わせは、多少の交雑はあるにせよ、基本的には変わらないものだと思う。が、この手段と対象の組み合わせのうち、むしろ「予防-個体」、「治療-人口」という組み合わせが可能であるかのように見え始めているところが厄介な感じがする。(というかおばかな教育(学)者というのはこれをごっちゃにして問題をややこしくしてきたわけだが)。
厄介な感じというのは、本当にその組み合わせが可能でかつ一般的に可能なものなのかどうかがまず分からない。つぎにそれがもし一般的に可能であるとすると、公共の利害とか、公共の福祉を本気で、考えないといけなくなる。これはしんどい。何のかんの言って、いままではそれは考えなくてもいい、というか考えても机上の議論だけで、現実はまったく異なる動きをしてしまっていたからよかったが、もしほんとうに低コストでこういうことができると、いよいよ本当に公共の福祉を定義しないといけなくなって、厄介だなあと思う。結果的にやっぱりユートピアになるんじゃないかな。どうだろ。
宇野ちんがうまくまとめていたけれど、人権は政治なのかというゴーシェの問題提起があって、それと似たようなことなのかなとも思う。(ああー宇野ちんの本の読書人か図書新聞の書評、おもろなかったぞ。)
 このnurture とnatureの枠組みで、メリトクラシーを考えると、もはやそれは政治的な問題を構成しない、ように見えてしまう。そこが引っかかるのか。
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うーんまとまらないが、ブログだがからいいだろう。問題を放置して終わり。基本的なところで、間違ったところやうまく考えられてないところや、ずれたがあればnmasakiくん指摘しておくように。
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temjinさんへ
デリダは35になるまでピクリとも面白いと思いませんでした。いまでも面白くないものもあります。けどたまたま多分デリダが最近考えていたことと、ぼくが考えていたことがすこし重なっていたので、面白くなったのだと思います。ぼくは誰それの「理論」とか、あまり興味はなくて、というか読んでも分からないというか、ぼくにとって意味はなくて、ええと自分で考え直してみないと駄目なんで、ということは、結局「***の理論」みたいなものは、自分で考えるものだ、ということなんで、デリダが面白かったというのは、たまたま考えていることと重なるというかすれ違うような部分が面白いといいうことで、それは、どんなに似たようなことを考えていてもやはり他人なので、ああ、そーゆうーふうーには考えなかったなあ、ほほー、というようなことがあると嬉しいわけです。最近だと、ベンヤミンは嘘というのは大事だというのを、あちこちに書いてるわけですが、デリダも「法の力」のなかで、ベンヤミンが暴力批判論でそう書いているよ、と指摘してあって、法/権利とか、力/権力とか、そういうものが構成する社会、とかを考える文脈で、嘘というのをもってくる、もってきかたが、まあ面白かった。en passantでしたが。あの論文は、やれメシア的ななんとかかんとか、とか、そういう読み方をついしてしまうんでしょうが、まあそれもいいですが、それはあんまりぼくは興味なくて、ちょこっと触れたそういうところが、ああさすがにデリダは見逃してないなあ、という、その辺が面白いわけです。いやー、あんたもそこが面白かったか、という感じで。ちょっとすれ違って無理矢理一方的に握手してバイバイと。あと考えるのは自分なんで。
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Oh 騙されたとか、Oh遊ばれたとか、Yeah あなたの子なのとか、そんなセリフNONONOノー
(KOJI1200 ぜひBuffalo Daughter RemixかBossaヴァージョンで。願、復活。ああ、もう一度、今度はKOJI120000を!)
アメリカ大リミックス!
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だからポストモダンが駄目とか、どうのこのうって言ってる奴ってそんな感じで、もういいじゃんって思うんだけど、駄目なんかなあ。まあこれは関係ない話か。まあ学級委員はどこの世界にもいるよな。おれはなれなかった。いっぺんでいいから、すごくやりたかったのに。民主的にも選ばれなかったし、教師にも指名されなかった。くそー。なんども廊下に立たせやがって。(ところで2ちゃんねるって、学級会に似てると思うんだけど、どうだろ。学校に似てるのかな。)
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ちなみに最初に教えてくれたのはエチゼンだけど、嘘ってコンスタンもそれでカントと論争してるんだよね。コンスタンの話は、Francois BoituzatがUn droit de mentir ? Constant ou Kant (PUF)っていう小さい本(マシュレーとかバリバールが編集してる学生向けの新書みたいな奴)があって、だいたいわかる。
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ベンヤミンもたぶんそのこと知ってたし、デリダも知ってると思うんだよね。その辺の議論。
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さらについでに、このあいだ「じょうきょう」に書いた書評では酒井(隆史)くんの本を、そのあたりと、つなげて書いた。本人はいやがるだろうけど。まあそういうふうにしか読めないからしょうがないよね。リジェクトされてなければ載るんじゃないかな。まあちゃんと要約できないってことなんだけどね。他人の書いたものを。できればもっと学校で成績よかったよな。)
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KOJI1200の「Blow Ya Mindーアメリカ大好き」は名曲だと思うんだけどなあ。今田と東野の「さようならあめりかー」「たのしかったよーあめりかー」「やさしかったあめりかー」「みんしゅしゅぎを、おしえてくれてありがーとー」「つよかったあめりかー」「みにすかーとのあめりかー」という部分はいまや涙なしには聞けません。
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聞き直すとノスタルジックな感じだなあ。
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