Une autre place sur la terre

なぜか思い出してしまった。

イチレツ ダンパン ハレツシテ
ニチロ センソー タタカイニ
サッサト ニゲルハ ロシアノヘイ
シヌマデ ツクスハ ニホンノヘイ
ゴマンノ ヘイヲ ヒキツレテ
ロクニン ノコシテ ミナゴロシ
シチガツ トオカノ タタカイニ
ハルピン マデモ セメイッテ
クロポトキン ノ クビヲトリ
トーゴー タイショー バンバンザイ
ノギ タイショーモ バンバンザイ

たぶん叔母に教えてもらったのだと思う。面白くて友達とよく歌った。叔母は子供のころ裏山なんかでよく歌っていたそうだ。叔母は団塊の世代。ぼくは67年生まれだけれど、80年代までだろうか、ある時期まではとりあえず(すくなくとも物質的かつ文化的な)貧しさとしか言い表せないような状態がまだ、この国のあちこちに残っていたように思う。日露戦争の歌がまだ生き残っていたからといって、ぼくの子供時代が、戦前との連続性の中にあったとまでは言うつもりはないが。本屋で『チョ・ジヒョン写真集 猪飼野--追憶の1960年代』(ISBN:4884000315, http://www006.upp.so-net.ne.jp/Nrs/shohyo1403.html)を見つけ、ほとんど反射的に買ってしまったのは、そこに出てくる風景がひどく懐かしかったからだ。ぼくの生まれ育ったところのほうがよほど田舎だったけれど、しかしなんともよく似た、どこかで見た光景がそこにはあった。たぶん同じように貧しさがまだ日本のあちこちにはあったんだろう。

まだあんまり家電もなかったし、洗濯機を共同で使っているところもあったりして(しかも脱水機がなくて、ふたつのローラーで挟んで洗濯物をしぼるやつ)、80年代以降の資本主義化がとうとうぼくの田舎まで到達して以降の時期とは、なにかが微妙にしかし決定的に異なっていたように思う。記憶だから怪しいけれど。けれど明らかに田中角栄以前の日本はまだ均質化が進んでおらず、つまりは地域による貧富差は途方もなく大きかったのではないだろうか(「文化」資本も含めると)。

ちなみに1967年、(短大をのぞく)大学進学率は12.9%、うち男20.5, 女4.9。短大も入れると17.9, 22.2, 13.4%。(ちなみに2003年の大学院進学率が11.0%うち,男13.8, 女6.8%。ただし卒業後ただちに進学した数字をもとにしているから、実際はもっと多いはず。)ぼくが大学に入学したのは87年で、進学率は24.7%, うち男35.3, 女13.6%。(短大を入れると順に36.1, 37.1, 35.1。)。詳しい数字はhttp://www.mext.go.jp/b_menu/toukei/002/002b/mokuji16.htmlを。

その頃ぼくの田舎(紀州の突端)ではたぶんクラスで二人か三人かが大学に進むという感じ。短大もあわせてどうだろう、高校を出て大学まで行くのはクラスで五人もいなかったんじゃないだろうか。中学の頃クラスでいつも一番だった女の子がいたけれど、彼女は大学に進学しなかったと思う。高校を出て大阪に出て働き始めた叔母が、しばらく働いたあと、働きながら某大学の二部に進学したとき、それが親戚中ではじめての大学進学だった。学校の先生を別にすると、ぼくはが目にするはじめての大学生であり、なんとも輝いて見えていたのを思い出す。そのころ想像可能だった進学先はせいぜい高専高等専門学校)だった。

高専は60年代の教育改革で工業立国を目指すために中間的技術者の養成を目的として作られたんだけれど、そこに進学すると、近所で羨望をもって語られていたのを思い出す。それはとりもなおさず、卒業して後に身につけた専門技術でもって、「月給とり」となることへの賞賛と羨望だったのだろう。

そういう状況だから「文化的なるもの」への飢えたるや、本当に「飢え」と呼ぶにふさわしいものだったように思う。経済学的に見ると移民と進学は同じことで(おっ、これってそうすると「でぃあすぽら」か?そうかもなあ。でぃあすぽらとか言ってる連中、みんな留学組だし。)、まずは戦前における海外移民。戦後、とりわけ60年代の国内移民(上京)。そしてそれ以降の進学(これは国内移動をももたらす)、というふうに分けられる。(とくに60年代のそれについては常に明快な吉川洋の『日本経済とマクロ経済学ISBN:449231198X。)

でぃあすぽらー、でぃあすぽらー。かっこいいー。くそったれ。

山が垂直に海に落ち込んでいるような土地だった。山の中腹に広がるみかん畑の上の方から、リアス式に入り組んだ海を眺めると、少しだけ見える水平線に南に向う「さんふらわあ号」や、中東からやってくるタンカーや貨物船がよく見えた。なんとはなしに、いまとは違う、別の場所に行きたいと思いながら見ていたのを思い出す。実際にはたぶんほとんどなくなっていたとはいえ、まだ移民が(外国へ出稼ぎにというニュアンスだったが)身近な話題の中にも出てきていたということもあったかもしれない。

遠足で鳥羽にゆくと、漁村に生まれたから、水族館とかは別に何も面白くなかったけれど(ついつい美味そう/美味くなさそうという視点が勝ってしまう)、ただ移民船だった『ブラジル丸』に乗るのは楽しみにしていた、というような時代。モールス信号でSOSを打ったり。

ここではない別の場所への欲望。

それがイワユル文化であれ、ロックであれ、漫画であれ、美少女キャラであれ、その欲望は、御しがたく、狂おしいものではないだろうか。(さもなくばどうしてひとは人生を賭けて、手鏡とともに、駅のエスカレーターに向うだろか。)それはよくも悪くも半ページには収まるようなものではあるまい。ヒトはみずから愛するものを語ると、つねに失敗する、と言ったのは誰だったか。そうした失敗は美しいものではないのかもしれない。とはいえ、失敗しようのないものも、やはり美しくはない(>id:nmasaki:20040816)。いや手鏡が美しいと言ってるわけではなく。

ひとによって心引かれるものはそれぞれに違うだろうけれど、ぼくの場合は、とりあえず「文化」としか呼びようのないもの、とくに学問、知識だった。それらへの強烈な欲望。まあそういうわけで、大衆「娯楽」(それだって非常に限られていたが)は自分が育った空気であり、捨てようのないものではあるけれど、しかし同時に、息苦しいものとしてあった。少ないチャンネルのテレビと、何日か遅れの漫画。一日も早く読みたいがために、わざわざ駅の売店まで買いに行ったりしたが、けれどそれだけでは何か満たされなかったのも確かだ。古ぼけた木造の公民館で、開かれていた読書クラブは、まったく別のなにかを、ここでは手に入らないなにかがあることをかいま見させてくれた。たぶん戦後に占領軍が各地の公民館(House of Citizen/Maison du citoyen !?)に配布した16ミリの古ぼけた映写機で、休みごとに上映される「狼少年ケン」の上映会。いったい何度同じフィルムを見ただろう(動物たちはやたらと会議を開いて、議論する。おお、民主主義の子、ケン。 おお、社会教育。よき公民citoyensのための。おお政治学と経済学(しかしいまや「私」語りの道徳/疑似哲学))。

A stable and democratic society is impossible without widespread acceptance of some common set of values and without a minimum degree of literacy and knowledge on the part of most citizens. Education contributes to both. In consequence, the gain from the education of a child accrues not only to the child or to his parents but to other members of the society; the education of my child contributes to other peoples's welfare by promoting a stable and democratic society. ...Milton Friedman

和英辞典を引くと、社会科social studies. 公民科civics

デューイの思想にもとづいて、総合的、横断的な知識の獲得を目的として戦後設立された社会科(だからこその様々な場所への社会見学なるものがプログラムに含まれていたのだが)は、不必要なものとされ、分断されたのちに、ふたたび総合学習なる奇妙なものとして復活する。なにをやっているんだか。

na,dakara iijanaika! kimura号!
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「文化」は、まったきよきものであり、獲得するものであり、かつ欲望の対象だったわけだ(狭義のサブカルチャー、あれは田舎ではハイカルチャーよりも、かえって手に入らないものでして。豊かになった80年代以降ずいぶん享受しましたが。)

そして21歳のとき、はじめて連れられて行ったヨーロッパで(いやたんに観光スポットを観光していただけだが)その文化(あるいは文明(の遺産?))にまったくもって打ちのめされるほどの驚き(ああ、ぼくたちは(というかこの国を背負ったはずの彼/女ら)は明治以来、これをやりたかったのか、これをやるつもりで、ああしていたのか、という共感でもあり、悲しみでもあるような感情)を受けたわけだけれど、それはまた別の話。

こういうかなり特殊な環境(いま生きている空間で、特殊という意味。全体から見ると、少数派というわけでもないのですよ!いまだに!)で育ったので、文化的なるものにたいして、知識と学問と、科学(あるいは啓蒙ですか!Dr(未満).KAMO!)に対してはまったくもって、掛け値なしに、100%の肯定を捧げてしまう。それは人類humaniteが作り出した、まったきよきものである。そしてそれ自身がこうした文化と知識と学問と科学の達成にほかならない、文化と知識と学問と科学にたいする真摯な(自己)批判にたいしてもまた、やはり掛け値なしの肯定を捧げてしまうというイヤハヤ、なんとも、まことに単純な話。まったくひねりなしですな。けれどそれはぼくの欲望にふかく根ざした感情であって、まったくもって御しがたいものなのだ。

... Il faut penser la lumiere. ... C'est un monde, c'est un monde qui est necessairement le monde de la lumiere .... Gille Deleuse.

こんなに長々書いているのは、そうです逃避です。
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とはいえ、まあそういうわけで、つい手を抜くなよ!文化生産者!という気持ちをつい持ってしまうのだろう。いや、なめんなよ、という表現が近いな。(id:yeuxqui:20040715で点が辛いのはそういうことです。いやあんな本買ったのが悪かったんだけど。もう買わないようします。(あと、草思社ももう信用できませぬ。金儲けが悪いのではなくて、あれは仁義にもとります。そういう本はそれらしい装丁でそれらしく売ってください。)
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おっ。元気になったようだ!
http://www.osk.3web.ne.jp/~irabuti/
里親募集だそうだ!エチゼンどうだい? あっ、Kamoは猫の手も借りたいんじゃないかい?