mayakovの本棚から

海からの贈物 (新潮文庫)

海からの贈物 (新潮文庫)

吉田健一というのはあまり好きではない。もっとも本人の書いたものが肌に合わないのか、吉田健一を褒めそやす雰囲気が嫌なのか、微妙な感じもするのだが、彼のエッセイは実をいうとあまり感心したことはない。が、この本、というかこの翻訳は(まだ最初のほうを読んだだけなのだが)さすがにちょっと驚いた。元の文をどう訳すとこの翻訳になるのかが気になるのはちょっと我ながらはしたないけれど、思わずアマゾンで探してバスケットに放り込んでしまった。

とはいえこの本の魅力は、アン・モロウ・リンドバーグの地に足のついた考察、つまり自分にとって必要なことを考えている、ということにあり、幸いなことに翻訳がそれを損ねていないということのようだ。

じつはこういう育ちのいい人の文章というのに弱い、ということもある。自己主張というか自己アピールをそれほどしなくてすむからだろう。わたしをみて!というやつ。日本だとしかしお嬢さんはおにばば本を書かされることになる。合掌。

……プロティノスは既に三世紀に、煩雑な生活をすることの危険を説いている。しかしながら、これは殊に、また本質的に女の問題であって、それは分散、或いは気が散るということが今までも、そしておそらくこれからも、女の生活から切り離せないものだからである。
 それは、女であるということが、丁度、車の輻(や)のように、中心から四方八方に向かっている義務や関心を持つことだからである。私たち、女の生活は必然的に円形をなしている。私たちは夫とか、子供とか、友達とか、家とか、隣近所とか、凡てを受入れなければならない。私たちは蜘蛛の巣も同様に、どこから吹いてくる風にもどこから来る呼び掛けにも敏感な状態で自分というものを拡げている。そしてそれならば そうした相反した方向に働く幾つもの力の作用にさらされて、平衡を保っているということが私たちにはどんな困難なことだろうか。またそれにもかかわらず、それは私たちにとってどんなに大切なことだろうか。宗教生活で常に説かれる不動ということは、私たちにはどんなに得難くて、そしてまた、なんと必要だろうか。瞑想家や、芸術家や、聖者にとっての理想である内的な平静、また曇らない眼というものは、私たちにいかに望ましてくて、そして私たちから遠いことだろうか。

ぼくは「女」ではないが、おそらくは彼女が生きた時代とはことなり、さすがの「男」も子供が生まれてしまうと(あるいは人によっては生まれていなくても)、こうした「女の生活」の幾ばくかを(たとえそれが「女」と比較するとまだまだささやかなものであれ)分け持つことを余儀なくされた結果からか、少なからぬ共感なしには読むことはできなかった。

そして僕には(おそらくはこれを読むほとんどの人にも)、必要なもの以外なにもない、浜辺の別荘などというものはなく、だから浜辺以外の別の場所に、浜辺の別荘を探さねばならない。巻き貝はどこに落ちているのか。

追記

ふとこの本のことを思い出した。

家事と城砦

家事と城砦

どっちがどっちだったかもう思い出せないけれど。