われながら

清潔な公共空間、というものへの欲望はどうも消しがたくある。たとえばきしどんにもらったビデオを見ると、薄暗いホテルの一室で

センセーこれえー
オシメ自分でつくってきたの?
うん
ははは
うふふ
(なぜかホットパンツ)

というのが、件の某育て直しの紹介番組のワンシーンなのだが、そもそも育てなおしって手法どうよ?ということも含め、公共放送なのだから、こんなもん内部で検閲して事前に却下してくれ、という願望はなくはない、というか非常に強い。オカルト臨床とかalternative medecineみたいなものへの不寛容。
まあでもなるべく市場原理万歳という方向で考えると、オシメプレー放映をやっちゃっう奴は根絶するという方向はまずくって、人間は馬鹿に生まれるのではなくて、なんかのきっかけで馬鹿になる。だからかならず、なんかの間違いでおしめプレーの映像は出る。出てしまったときに、これはまずかろう、という判断ないしは議論が成立する場が確保されているかがまず重要で、あるとしてうまく機能しているか、どう機能させるか、というのが多分つぎにきて、そうはいっても、相対性理論は間違っていた、とか、進化論はまったく間違っておる、とか、昨日神様に会いました、という議論の余地のあまりなさそうな間違いはしでかさないようにチェックしとこう。で、それが済んだら議論の余地のあるほうをどうしましょうねえ、しかし議論の余地のあるのは、まあ議論せんとしょうがないですな、というあたりに落ち着かないですかね。だいたい民放だと、血液で人間を分けるのオッケー。神様に会うのもオッケー、幽霊が写真に写るのもオッケー、地図を見ながら殺人犯を見つけるのもオッケーでしょ。たぶん今も。個人的にはまずかろうと思うんですが。
そもそも事後のチェックの場というのはうまく機能してるんすかね。もし制度的になんか用意したいのなら。ええと雑誌とか新聞とかブログとかそうなんすかね。そうだとしてうまくその辺のオピニオンを拾ってくる制度はうまくはたらいているんすかね。こういうのは迂遠でめんどくさいけど。
ただ、これより細かい制度的な話はNHKの内部でやるべき議論のゾーンに徐々に入ってゆくわけで、部外者は上のほうの公共的なゾーンでの議論にしといたほうがいいんじゃないの、という感じがする。なんかちょこちょこと見てると、検閲があったかなかったかはっきりしない段階でいきなり細かい話をしたがる「大人」のひとが多くて、それはむしろ2チャンネルあたりで子供同士でやればいいんじゃないかと思う。
反革命分子は殲滅しとけば悪いことはせん、殺すのもなんだからどっかに隔離という臭いにおいは元から絶たないとダメ、という方向はなんかきれい好きの恐怖政治のほうを向いているので、せめて大人な人の議論は違う方向を向いてほしいなあ、という趣旨なのだった。
まあこのへんもすでに清潔で理性的な公共空間万歳という話で、なかなか世の中はそうはならないよね。革命の反対は保守なのに、ファナティックなところは同じの反革命になっちゃうのは、歴史の教えるところでもあるので、しょうがないのかな。
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昨日のしかしエチゼンの介入だが、やっぱり深く考えると関係ありそうな気がしてきた。
ちなみにつねにうろ覚えの人間なのであらルシャプリエ法ってなかったね、と誤解したのだがもちろん、ある。内容は結社の禁止なんだが、その辺の議論のなかで、やっぱりどうも(公共空間での)「議論」の問題が出てくる。
もうすぐみみず書房からでる本が、詳しく議論しているはずなので、関心ある人は読むべし。タイトルは見れば分かる。
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日本の社会政策思想で飛んできた人は、できれば「生の統治」ってえ論文を読んでくだせえ。途中、日清戦争日露戦争を間違えたてたり、膨大な誤字脱字がありますが、適当に脳内変換しながら。
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まあ推敲はできないねえ。っていうか、推敲のためのものだから、ここの文章はつねに推敲されるべきものしか載らないってことで。
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エチゼン絡みでいうと、ようやく図書館でだれかが借りていたのか見当たらなかった古代思想をよんだけど(そのためにしげしげ通って滅多に見ない文芸誌を立ち読みするはめに)、年末の笑い飯のようだったよ。

ラサール石井「今回のには、ひとつの漫才の中に、別々の漫才がふたつはいっていたような気がしたよ。前半と後半が別のようで。」
笑い飯「今回は漫才をふたつやったんですが」
今田耕司「ふたつやったんかい!」

おれはまあずっとどういう議論なのか知ってるからいいんだけど。
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最近の笑い飯の漫才はみょうにオーソドックスの方向を向いているし、ちゃんと説明的な突っ込みをする。わざとだろうが、それってどうよ。
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mayakov曰く
おたく同士の会話ってすごくテンポよく流れる。

あー、たしかに。言われてみて気がついた。